ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは1889年、オーストリア・ハンガリー帝国のヴィーンに生まれた。父カールの8番目の子、5人の兄弟と3人の姉妹の末っ子です。ヴィトゲンシュタイン家は富裕で、父カールの代ではオーストリア鉄鋼財閥の雄となっていて、ドイツの重工業企業クルップ、アメリカの鉄鋼企業カーネギーと肩を並べるほどでした。
8人の子供たちは多くの使用人を抱える邸宅で育てられ、多くの蔵書や家を訪れる芸術家たちの影響によって才能がつちかわれました。家に出入りしていたアーティストは、シュトラウス、ブラームス、マーラー、メンデルスゾーン、ロダン、ハイネ・・・
それだけ恵まれた環境にいながら、男兄弟5人のうち、3人は自殺しています。ルートヴィヒも生来の鬱気質から、自殺しかけたこともあります。
ヴィトゲンシュタインは第一次世界大戦で、5年間兵士として勤め、その後は莫大な財産を兄姉に譲り、修道院で庭師として働いた後は、小学校の臨時教員となります。ケンブリッジに40歳で戻り博士号を取得、50歳で哲学教授、58歳で教授を辞職、前立腺ガンのため62歳で死去する。独身でした。
大学の宿舎に住み服装は質素。ウールの上着かジャンパー、いつも灰色のフランネルのズボン、ネルのシャツしか着なかった。夕食も固いパンとバターとココアだけと、これも質素でした。ヴィトゲンシュタインの生前に刊行された哲学書は「論理哲学論考」のみですが、死後に編纂され発刊された著書もあります。著作の概要を以下に。
「論理哲学論考」
薄い一冊だが、当時の哲学界に衝撃を与えた。従来のほぼすべての哲学を真っ向から否定した書物だと思われたからである。従来の哲学書のここが間違っていると指摘したのではない。人間の論理的な思考と表現に用いる文章というものがいったい世界のどこまでを伝えうるものなのか、どこまでしか伝えられないものなのかを論理の点から考察したのである。ふつうの人々から見れば、「論理哲学思考」は数式の入った難しい論理学の書物でしかない。しかしヴィトゲンシュタインはこれを倫理と美学についての哲学書として書いた。そのことは序文にも記されている。
「この本は哲学の問題を扱い、これらの問題に問いを立てることが・・言語の倫理の誤解に基づくことを示す。この本の全意義を次のような言葉にできるだろう。”もともと言い表せることは明晰に言い表せる。そして語りえないことについては人は沈黙する”」
つまり、これまでの哲学は難解な問題を扱っていたのではなく、言葉の使い方を誤っていたために、それら問題が難解なものになってしまっていた、というのである。哲学が取り組みながらも解明できない問題は難しいのではなく、そもそも言語で言い表せないものを言語で表現しようとするからなのだ。言語で言い表せないものはただ示すしかない。あるいは口をつぐみ、音楽や絵だので別に表現するしかないというわけである。
「哲学的考察」
自分の仕事を説明して大学の助成金を得るために1930年までに書かれたもので、数学哲学、色彩の文法、痛みについて、意味の検証理論など、さまざまなテーマが論じられている。
「哲学的文法」
言葉の意味は、その使われ方から生まれ、その使われ方が生活の仕方と不可分であることが語られる。
「青色本・茶色本」
口述講義録。言語のゲーム性、いわゆる言語ゲームについて実例が語られる。
「哲学探究」
後期の中心主著とみなされる。書き方は、「哲学は詩のようにつくるしかない」と述べていたように、疑問形や自問自答の多い断章の羅列である。言語の論理的構造は現実にある構造をそのまま写しているとする「論理哲学論考」に根本的な誤りがあったことを認め、言語は現実の写しといった単純なものではなく、無数の背景の中で異なった意味で使われているという立場から今度は現実の日常言語をあらたに分析していく。
「心理学の哲学」
知覚、想像、思考、意図、偽装など、人の内的体験について考える。フロイトの心理学についてはまっとうなものだとみなしていない。
「確実性の問題」
死の直前までのメモを断章的に集めたもの。何を以てそれが確実であるとわかるのかということを問題にしていく。
以下に、227の言葉の中から気に入った9つの言葉を。
<考えるとは、映像をつくり出すこと>
考えるということは、要するに自分で何か映像をつむぎだしていくということだ。何かが、あたかも自分の眼にはっきりと映るかのようにしていくのが「考える」ことだ。どんな人でも、結局はそういうふうにして考えている。
<つまらない考えに揺さぶられていないか?>
風が吹いてきて、木を揺さぶる。風は大木をも揺さぶる。わたしたちもそんな木々のようなものだ。つまらない考えに、くだらない考えに、どうしようもない思いに、心を揺さぶられている。
<難問は雑草のように根こそぎ引き抜け>
地面にちょろちょろとしか生えていない雑草を引き抜こうとしてもまったく手に負えないときがある。大きくて複雑な根が土の中に深くはびこっているからだ。難問とはえてしてそういう厄介なものだ。今までのやり方で解決できるものではない。目に見えるところだけ対処していてもどうにもならない。根こそぎ引き抜く必要がある。
<愛こそが幸福そのもの>
愛されると嬉しい。愛されないと淋しい。愛されなくても、愛することができれば満たされる。愛が欲しくて見つめる。少しでも愛が感じられれば、胸が暖かくなる。愛するものがあれば夢中になれる。そういう愛の代わりになるものはこの世に何もない。幸福と呼ばれるものの中には必ず愛が含まれている。いや、愛こそが幸福そのものなのだ。
<苦しむのなら、善に加担して苦しみたい>
どうしても苦しまなければならないというのならば、自分の中に住む善と悪の闘いにおいて善のほうに加担し、そこから生まれてくる苦しみに甘んじたい。自分の中に住む悪とまた別の悪の醜い戦いで苦しむよりずっとましだと思うから。
<本当に欲しいものは別にある>
人は欲しがっているものを本当に欲しいのではなく、別のものを手に入れたいと渇望している。たとえば、大型犬を欲しがっている人が本当に望んでいるものは自分が支配する力だというふうに。
<信仰が人を幸せにするのは、人への恐怖感がなくなるからだ>
信仰が人を幸せにすると言われれてきたことの意味がわかった。神にかしずいて謙虚に生きることによって、もはや人への恐怖感がなくなるからだ。ふだんのわたしたちはそれほど他人を恐れて生きている。
<尊敬されるのではなく愛されるように>
少なからぬ人々は、他人からほめられようと思っている。人から感心されたいと思っている。さらに卑しいことには、偉大な人物だとか、尊敬すべき人間だと見られたがっている。それはちがうのではないか。人々から愛されるように生きるべきではないのだろうか。
<弱さとは苦しみを受けとろうとしないこと>
人として弱いということは、生きていくうえで受けるべき苦しみを自分で受けとろうとしないことだ。
ブラームスはお好きですか?一番好きなのはグールドの間奏曲集です。雨の日に聴くといいです。アルバムの1曲目、変ホ長調作品117-1を♪ 最良の音楽のひとつです。