2015年のNHK大河ドラマは「花燃ゆ」で、主人公は文(ふみ)です。吉田松陰には4人の妹がいて、寿(ひさ)は2番目で、文は末の妹です。
文は1857年、高杉晋作と並ぶ松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞と結婚します。久坂玄瑞18歳、文15歳。久坂は最初結婚するのを嫌がっていました。文との結婚を松下村塾の仲間だった中谷正亮から打診された久坂は、器量がよくないといって断ります。すると、色香に迷うとは何事かと一喝され、わかったと結婚を承諾します。
1864年禁門の変で、久坂は25歳の若さで自刀し、文は22歳にして未亡人になってしまう。文は久坂玄瑞との思い出を胸に生き続けますが、姉の寿の死から2年後に、姉の夫であった楫取素彦との再婚に踏み切ります。文39歳、寿をなくして不便であった楫取をみた母瀧子に強く勧められてのことでした。
楫取は人格高潔、のちに初代群馬県令となり、群馬の父と慕われる偉人です。遊学で江戸に出た松蔭と知り合い、深い信頼関係で結ばれ、処刑される松蔭からは松下村塾の後事を託される。2014年世界文化遺産に登録された富岡製糸工場が閉鎖されそうになったっとき、それを防いだ人物でもあります。
楫取に松蔭は、生前、自身の座右の銘である「至誠にして動かざるは未だこれあらざるなり」という孟子の言葉を贈っています。
吉田松陰といえば司馬遼太郎の「世に棲む日々」が有名です。このブログのタイトルモチーフでもある。
司馬さんの幕末ものでは、「竜馬がゆく」「世に棲む日々」「花神」「燃えよ剣」は面白いです。色々と影響されます。僕なんか酒を飲むときよく豆腐で飲みます。これは花神の大村益次郎(村田蔵六)の影響です。
「留魂録」は吉田松陰が政治犯として、幕府に処刑される前日の夕刻に脱稿した遺書です。本書の「留魂録」の部分はだいたい20分ほどで読めます。わずか5千数百字。現代語訳、原文、ひらがな交じり文といろんなパターンが掲載されています。
井伊直弼の「安政の大獄」によって投獄され、30歳という若さで処刑される2日前から「留魂録」の執筆に取りかかる。その冒頭にはかの有名な「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」が記されています。
留魂録の影響はすさまじかった。個人的には日本の「コモンセンス」だと思います。高杉晋作は萩で松蔭処刑の知らせを聞いて激憤、慟哭し、藩の重鎮に「倒幕の決意表明」をする。極言すれば、高杉晋作のこの決意が日本を変えたとも言える。
(高杉晋作)
留魂録にはどのようなことが書かれていたか?
1.投獄以来の考え方の変化
2.取り調べ内容の概略について
3.わが評価は棺の蓋が覆われてから
4.供述書の読み聞かせ内容のでたらめ加減について
5.7月9日の評定所での件
6.9月5日、10月5日の評定所での件
7.生死に対する考え方の推移
8.四季の循環とわが人生
9.獄中内外の同志の件
10.尊攘堂創設の件
11.小林民部について
12.高松藩士長谷川宗右衛門・速水親子のこと
13.他藩の尊攘志士と通じる件
14.儒者橋本佐内について
15.水戸藩士鮎沢伊太夫らに渡してもらう件
16.村塾・村塾生の今後と和歌五首で伝えるわが意志
この中から、「8.四季の循環とわが人生」の現代語訳を以下に。
『今日、私は死を覚悟したが、心のうちはとても穏やかである。なぜなら、四季の移ろいということを考えたからだ。稲作を見ると、春に種をまき、夏には苗を田に植え、秋になると刈り取って、冬の間は蓄える。秋や冬が来ると、人々は皆、その年の収穫を喜んで、酒を造り、甘酒をこしらえ、村や野に歓びの声が満ちあふれる。
収穫の時に臨んで、その年の労働が終わってしまうと悲しむ者がいるなどという話は、いまだかつて聞いたことがない。私はいま、数えで30だが、何ひとつ成し得ずして死んでいく。その姿はたとえてみれば、すくすくと生長せず、まだ穂を実らせていない稲のようだと世間の人の目には映るかもしれない。そういう見方をすれば、いま死ぬのは惜しいということになる。
だが自身についていえば、いまこそが、花咲き、実を結んだまさにその季節なのである。どうして悲しむことなどあろうか。なぜなら人の寿命というものはまちまちであり、稲が四季をめぐるのとは違うからである。10歳で死ぬ者は10歳という歳月の中で春夏秋冬を経験し、20歳で死んでゆくものは春夏秋冬を20回経験する。30歳で死んでゆく者には、30回の春夏秋冬が訪れる。ただそれだけのことなのだ。
~中略~
私は30歳、春夏秋冬はすでに体験しており、いくたびも花をつけ、実をつけている。ただしその実がモミガラなのか粟なのか、私自身にはわからない。
ささやかなわが志を継承してくれる人がいる限り、その種は先々まで絶えることなく生き続け、年を経ても、また立派に花を咲かせ、見事な稲穂を実らせるはずである。同志諸友、このことを熟考してほしい』
以下にその他の読書メモを。
神童・吉田松陰
神童・松蔭の名が萩城下に知れ渡るのは、10歳の時に藩校「明倫館」で授業をし、11歳で藩主の前で「武教全書」を講義してからである。11歳の松蔭が兵書を講義した藩主は、毛利敬親である。敬親は1837年に19歳で13代藩主について3年目の二十歳の若者であった。中学1年生が大学4年生に講義するようなものだったが、松蔭の講義内容の高さに舌を巻き、「奇なるかな、この子」といって、以降、折に触れて目をかけることになる。
(吉田松陰)
松下村塾とはどんな塾だったか
松蔭は優れた人材を多数、世に送り出している。伊藤博文、高杉晋作、山県有朋、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥次郎、久坂玄瑞、佐世八十郎らである。松蔭の伯父の玉木文之進が塾を開いた。松蔭が教えるのは自宅蟄居を命じられて入獄するまでの僅か2年5か月である。たった3年にも満たない短期間に、上記のような「明治の元勲」と呼ばれる逸材を何人も育てたのだから、驚嘆せざるをえない。
松蔭が入獄で去る日、塾生に告げた言葉は「誠ということを忘れてくれるな」だったと、塾生の平野清實が述べている。
松下村塾は武士の子弟が学ぶ「藩校」に対し、「私塾」と呼ばれた。同じ武士でも下士の子弟は藩校で学べなかったが、松下村塾は上士・下士を区別することなく門戸を開き、農民の子弟でも向学心が旺盛なものは受け入れた。
松蔭の家系は、武士でありながら農業を営まないと食べていけないような貧しい暮らしだった。しかし松下村塾には月謝や会費はなく、それどころか「家計をやりくりして塾生に食事を用意することもあったし、遠くから来たものは家に泊めた」と塾生だった渡邉高蔵が証言している。松蔭刑死後は、楫取素彦が塾長を務めた。
松蔭の教育法、どんな教師だったのか
大きな特徴は、「机上の学問はするな。実践に役立つ学問を身につけるように」と指導したこと。「何のために学問するのか。学者になるのはつまらない。学者になるには本を読みさえすればいい。学問するには”立志”ということが大切である」と言われたと、渡邉高蔵ら塾生OBが証言している。
実践に役立つ学問を身につけさせるために、松蔭は各人の長所を見つけて、そこを伸ばすよう指導した。塾に顔を出した者から教えたが、特に科目はなく、教科書も皆別々、少人数制で朝昼晩とずっと講義し、疲れると居眠りして睡眠不足を補っていたという。
難解で分厚い文献はダイジェスト版をつくって塾生が取り組みやすいようにするなど、わかりやすく懇切丁寧に教え、テキストの大事な個所や重要な文章は必ず「抜き書き」するようにさせた。それは松蔭自身が父や叔父たちから教えられて幼少時からやってきたことだった。
松蔭流の読書術は「登場人物に感情移入して読むこと」で、読書しながらよく涙を流した。塾生にもそうやって読むよう指導した。松蔭は本の虫で、いつも懐に5~6冊の本をねじ込んでいるので着物が大きく崩れていた。松蔭の読書スピードは半端ではなく、文章を書くスピードも超人的だった。向学心の塊で、「我以外、皆師」と考え、旅行しながら通過する諸藩の儒者らと徹底的に議論し、多くの事を吸収した。塾生が旅立つときは、何日もかけて檄文をつくり、それを贈って鼓舞し、感激させた。そういう教師だったからこそ、塾生らも勉強や読書に積極的に向かったのだ。
松陰語録が教える勉強のコツ
・学問は自分の得手不得手をしっかり見きわめて工夫せよ
・頭の良し悪しに関係なく、誰にだって1つや2つの才能があるものだ。全力を傾けて努力すればその才能が開花し、大成できるはずだ。人をやる気にさせ、隠れた才能を大きく伸ばす秘訣はこれに尽きる。
・一番よくない勉強法は、やったりやらなかったりすることだ
・1か月でできなかったら、2か月かけてやる。それでもダメなら100日かける。途中で投げ出さないことが大事だ
・議論するときの鉄則は、自分自身の周辺のことから論を起こすのが堅実な手法である
・日頃よく喋る者ほどいざというとき黙り込み、日頃気炎を上げる者ほどここぞという場面で意気喪失する
松下村塾五規則
(松下村塾)
・両親の命、必ず背くべからず
・両親へ、必ず出入を告ぐべし
・早起きしたらいの水で身を清め、髪を整え、先祖を拝し、御城にむかひ拝し、天朝を拝する事。たとひ病に臥すとも、怠るべからず
・兄はもとより年長または位高き人には、かならず順い敬い、無礼なることなく、弟はいふもさらなり、品卑しき年すくなき人を愛すべし
・塾中においてよろづ応対と進退とを切に礼儀正しくすべし
1条から5条に至り、違背あるべからず。背く者は1条の科(とが)は、必ず座禅たるべし。その他4条は軽重により罰あり
松陰が愛したもの
高杉晋作は28歳、坂本龍馬は31歳、吉田松陰は30歳で亡くなっている。晋作は愛する女に「三千世界の鳥を殺し、主と朝寝がしてみたい」などと洒落た都都逸を創作し歌って聞かせた。坂本龍馬は日本初の新婚旅行をしたくらい女房思いだった。松蔭は女を知らずに30歳で亡くなった。
松蔭が命がけで愛したのは日本という国であり、思い続けたのは日本の行く末だった。
(関連記事)
【コモンセンス完全版・トマスペイン】内容の要約
https://book-jockey.com/archives/6789
【現代語訳 大西郷遺訓】要約まとめ
https://book-jockey.com/archives/7042