【茶の本/岡倉天心/1906年初版】要約まとめ

最後のページを読み終わったとき、思わず「カッコイイ」とつぶやいていました。こんな素晴らしい本を今まで読んでなかったなんて。

原本は岡倉天心が1906年にNYで出版した「The Book Of Tea」。それを現代語訳しています。超訳ではない。

茶人とは、「おしゃれさん」です。自分の生活全般をおしゃれにする。精神も含めて徹底的です。この本によると「茶人たちは、芸術そのものになろうとした」「日本には、茶人が影響を与えなかった美など存在しない」

なるほど。渋い。

日本的な”美”とは何か。たとえばこの本に書かれている、「利休の朝顔の話」

利休の時代、朝顔は珍しかった。彼が育てた朝顔の評判は太閤秀吉の耳に入ります。秀吉が見に行くことを所望し、利休は朝の茶に招きます。約束の日、秀吉は庭を歩きますが、朝顔がひとつもない。地面はきれにならされ、美しい小石や砂が撒かれています。

朝顔がない、秀吉は怒りを浮かべ茶室に入ります。するとそこで待っていたもので陽気さを完全に取り戻します。床の間にあったものは、宋の職人によってつくられた貴重なブロンズの器に入れてある、一輪の朝顔。庭全体から選ばれたもっとも美しい一輪でした。

やっぱりわびさびでしょうか。日本のわびさびは地震国であったことも影響してる、この本を読んでそう思いました。欧州みたいに、石の建築物は日本では地震で崩れてしまう。木で作って一代で取り崩す。伊勢神宮ですら。

諸行無常、移ろいゆく儚いものならば、清貧にわびさびに。

それにしても、日本の精神文化はGHQに完全に断裂されています。ぼくらがじいちゃんの時代になったら、もうダメかも。アメリカンカルチャーが浸透しすぎてる。こういう本読みつないで、言葉で伝えていかないと。

古き良き日本の精神文化に触れて、あなたも「おしゃれさん」になりませんか?

茶の本の構成は以下。
第1章 茶碗に込めた人間力
第2章 茶の流派
第3章 道教と禅
第4章 茶室
第5章 芸術の鑑賞
第6章 花
第7章 茶人たち

以下に読書メモ(要約)を。



茶の歴史・世界

大航海時代16世紀末、オランダ人が「東洋では小さな灌木の葉から爽快な飲み物をつくる」という知らせをもたらす。1610年オランダ東インド会社がお茶をヨーロッパに持ち帰る。フランスにお茶が伝わったのは1636年、ロシアに到達したのは1638年。

イギリスには1650年に歓迎をもって受け入れられ、「この素晴らしい商品は、医師によって推奨される中国の飲料です。中国人はこれを”茶”と呼び、他の国では”ティ”と呼んでいます」と宣伝された。

お茶は最初値段が非常に高かった(1パウンド15シリング)。一般の消費者には手の届かない品だった。そのため「饗応と歓待のため宮廷御用達品」となり、「貴族や社会的地位の高い人への贈答品」とされた。それでも飲茶の習慣はものすごい勢いで広がった。

失われた中国の茶

4~5世紀お茶は揚子江流域の住民には、ごく普通に愛飲される飲み物になった。唐の時代8世紀中頃に”陸羽”が現れ、茶経を刊行する。茶の基準を体系化した茶の聖典だ。唐の時代は団茶(固形茶)だったが、その後、宋の時代になり粉茶(抹茶)を使うようになり、明の時代には出す葉茶(煎茶)になる。茶は疲れを癒し、気分を爽快にし、意思を強固にし、視力を回復するなどの効用を持っているとされた。

宋の時代、中国南方の禅宗の一派が道教の教義を多く取り入れた。彼らは丹念にお茶の儀式をつくりあげた。僧侶たちが菩提達磨の像の前に集まり、うやうやしい聖餐をとるような形で、
一つの鉢に入れたお茶を皆で飲んだ。

永劫は瞬間にほかならず、涅槃はつねに自分自身の手の中にある。「不死とは永遠に変化するものの中に存在する」という道教の思考形式は、宋の時代の人々には沁みわたっていた。

不幸なことに13世紀に突然モンゴル民族が挙兵。元帝国の支配により中国を蹂躙、征服した。このとき宋が生んだ文化はことごとく破壊された。15世紀には「明」が漢民族による王朝を再建しようとする。しかし17世紀になると中国は再び、満州人による異民族支配に甘んじる。宋の人々が夢中になった抹茶は、もはや完全に忘れ去られた。

どうして紅茶を愛飲する西洋諸国が、お茶の古い飲み方(抹茶、団茶)を無視しているかといえば、単にヨーロッパは明の末期に飲まれていた方法しか知らなかっただけのこと。また後代の中国人にとっても、お茶は美味しい飲み物であっても、一つの理想を体現したものではない。

日本の茶の歴史

日本では中国のお茶の3段階をすべて経験した。729年に聖武天皇は百人の僧侶にお茶を与えた。お茶はおそらく遣唐使によって輸入された。801年に最澄は茶の種を唐から持ち帰り比叡山に植えた。

宋代の粉茶は、中国南方の禅宗を学びに渡航した栄西によって1191年に日本にもたらされた。彼が持ち帰った新しい茶の種は3つの場所に植えられ、その一つは京都の宇治である。

南方の禅は驚くほどの早さで普及し、それとともに宋代の「茶の儀礼」や「茶の理想」も日本に普及した。15世紀になると、足利義政将軍の保護のもと茶の湯は完全に確立し、日本において「茶道」が成立した。

後代の中国で盛んになった葉茶(煎茶)の使用は、日本では比較的最近の17世紀中ごろになってから。葉茶は粉茶にとって代わったが、お茶の中のお茶という地位は、日本ではいまだに粉茶である抹茶がその頂点に立っている。

茶道の思想

茶道とは、形を変えた道家の思想ということができる。茶の湯は禅宗の儀礼を発展させたものである。道教の創始者老子も、茶の歴史と密接に関わっている。また道教と禅における人生と芸術についての理想は、まさに「茶道」のなかに具現化されている。

⇒補足すると、禅は道教から多くを取り込んでいます。道教とは何か、一言でいうと「自然体」、もしくは「しなやかな中庸」かなとぼくは思います。



老子の思想が生まれるまで

道教とはアンチ儒教。中国北部の共同主義の儒教に反発した中国南部の個人主義的な思想。中国王朝は欧州全土と同じ広さ。この広い国土を横切る2つの大きな河川によって、この国は2つの異なる気質を持った区域に分かれる。南方の中国人は、北方の中国人とは考え方が違う。ラテン民族がゲルマンのチュートン人に相容れないのと同じ。

翻訳とは裏切り行為

明の時代の著者が述べているように、翻訳というのは、つねに一つの裏切り行為だ。どれほどの言葉をつくしても、錦の裏を見せる程度に終わってしまう。つまりすべての糸がそこには見えているけど、精妙な色合いやデザインは、他の言葉で翻訳されたものには写しだされない。

価値あるものの値段が安すぎる時代

商売を独占する者たちは、驚くくらい繁盛している。今は価値あるものの値段が安すぎる。もしあなたが才能ある人なら、その能力をすぐに隠したほうがいい。その価値が世界に知れたら、公共の競売人たちによって、あなた自身が最高値で落札されてしまう。

なのにどうして男性も女性も自分自身を宣伝したがるのか。それは奴隷の時代に由来する、一つの本能にすぎないのではないか。

3人の酢をなめるもの

道教は儒教や仏教と違って、現世をあるがままに受け入れます。だから悲哀や苦悩にあふれたこの世界の中に、美を見出そうと努めるのです。「3人の酢をなめるもの」という宋代の寓話は、道教、儒教、仏教の3つの教義における傾向を見事に説明している。

釈迦と孔子と老子が、酢の入った瓶の前に立ち味見をした。酢の入った瓶は人生を喩えたものだ。

リアリストである孔子は「酸っぱい」といい、釈迦は「苦い」といい、老子はこれを「甘い」と言う。

3人の酢を舐めるもの

インドから中国にわたって変化した禅

禅は道教の教えをさらに強調している。禅はサンスクリット語の「ディヤーナ」すなわち瞑想を起源とする。深い瞑想を通して、自己認識の極限への到達を目指す。瞑想はブッダが悟りをえるのに使用した6つの方法の1つ。

釈迦は瞑想における法則を一番弟子だった迦葉に託す。迦葉から阿難陀・・・28代目に菩提達磨に到達する。この菩提達磨が6世紀の前半に中国北部を訪れ、中国における禅宗の開祖となった。

現在知られている最初の禅の教えは、中国6代目の大祖であり「南方禅」の創始者であった慧能(638~713年)によるもの。南方禅には揚子江流域の独特の思考様式がどんどん加わり、古代インドの理想主義とは別の物になっていく。

露地

待合から茶室へ導かれる間の小道である露地は、それが瞑想の第一段階であることを示している。露地の意味は外部の世界との関わりを絶ち、茶室の中で美的な楽しみを味わえるよう、精神をリフレッシュしてもらうこと。庭石にかかる常緑樹の影、松葉が散りつくし、苔むした御影石の灯籠のそばを通る。

露地を通るときに起こる自然な感情は、それをつくった茶人によって異なる。利休の場合は完全な孤独感を生み出すことを目指した。いわく「露地をつくるときの秘訣は、古代の歌人、藤原定家の和歌に詠まれている」

「見渡せば 花ももみじも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮」

サハラ砂漠でお茶を♪ by ポリス B面ラストの曲でした。

レスポンシブ広告

シェアする