有名な話ですが、西郷さんの肖像は別人らしいですね。
西郷さんは写真嫌いで写真を残さなかった。弟や従弟の写真を参考にして描かれたそうです。上野公園の銅像の除幕式で奥さんが「こげなお人ではなか!」と叫んだとか。ちなみに写真嫌いの理由はリスク管理(顔写真が出回ると刺される)。
明治22年2月21日の憲法発布の日、明治天皇は西郷の賊名を解かれました。西郷によって戊辰戦争で許された庄内藩士らは、すぐさま遺訓を編纂し、翌明治23年に千部印刷・配布します。
西郷に著書はありません。遺訓は西郷との問答による語録であり、ひたすら西郷を欽慕し続けた旧庄内藩士の真心の結晶です。戊辰戦争の正面の敵であった庄内藩士らが成した作品というのが、西郷の人柄を示しています。本書はそれの現代語訳版です。
読み終えると、じんわりくる名著。今年読んだ本のなかでは一番の良書です。時間には限りがあり、いつもこの本のような古典名作ばかりを読んでいたいのですが、いかんせんそこは手探りになる。その人にとっての良書は、その人にしかわからないから。
本書はこの前読んだ「大東亜論/小林よしのり」に紹介されていて知りました。
三島由紀夫が大いに尊敬して「林房雄論」まで書いてますが、まず著者が素晴らしい。この本のスタイルは西郷の遺訓である「原文」があり、それをわかりやすく書いた「意訳」があり、その後に著者の「解釈」がある。これが面白い。通読すれば西郷の一生が理解できるし、漢学、西洋学、国学に通じた著者の知識も味わえる。
さらに林房雄の考え方が素晴らしい。思わず唸るしかない。もちろん土台である大西郷の遺訓は、ある種の宗教家のようで、疑いようのない真理です。拝読してると僕なんかは耳が痛い。
国学系の名著を読みたいと思ってるので、手引書として購入するつもりです。本は買わないのですが、手元におきたい「これは!」と思う本は、図書館で読んだあとに購入しています。これだと間違いがない。
以下に読書メモを。
始末に困る人
「命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬという人は、始末に困る人である。しかし始末に困る人でなければ、艱難困苦を共にして、国家の大業は成し得られぬものだ。」
ただしその実行はむずかしい。王陽明も言っている。「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」。当時の西郷が考えた「国家の大業」とはまず日本の統一を完成し、独立国家として、欧米の侵略(植民地化の野望)に対抗できる実力を養うことであった。植民地化の一歩手前であった清国や韓国を再起させ、これと連合して西洋に当たることである。
これが内村鑑三の言う「東方経路」であり、勝海舟、福沢諭吉、岡倉天心、頭山満、内田良平の理想ともつながり、後に石原莞爾の「東亜連盟論」を呼び起こした。大東亜戦争に敗れたりとは言え、日本国民の健闘が人類最大の罪悪である植民地主義に止めを刺したことは、戦後の歴史の示すとおりであり、今は何人も否定できない。
大東亜戦争を日本の一方的侵略と見るのは東京裁判のイデオロギーにすぎず、これに盲従した左翼学者の妄説であり、日本の理想とは無縁である。歴史は長い目で眺めなければならぬ。満州事変から始めて大東亜戦争敗戦に終わる「15年戦争説」を固守する左翼歴史家は、その視野の狭さにおいて歴史家とはいえない。
沖永良部島への遠島
西郷は死を覚悟した。吹きさらしの囲いの中に正座し、囚人食のほかには食をとらず、島津久光からいつ切腹の命が下るかもしれず・・だがどこに行っても西郷には不思議なほどに同情者、崇拝者が現れる。監視役の土持政照とその母もそれであった。政照は下男に魚の煮付けをはこばせたが、牢番は箸をつけない魚をそのまま持ち帰ってきた。
政照「先生はどいうわけで、これほどの粗食に甘んぜられるのですか」
西郷「粗食した人間は死顔が見苦しくないそうだ」
そして食い物も飲み物もいらぬが、荷物として持ってきた書物と筆墨がほしいと言った。西郷の荷物を調べると、三つの行李の中身は全部書物であった。漢籍だけではなく、万葉集や古今集の手抄本、本居学や平田学の本まで揃っていた。政照はその中から、西郷がほしいと言った「李忠定公奏議」「陳竜川文鈔」「言志録」「伝習録」「嚶鳴館遺草」その他を選び届けた。
西郷嫌いだった三島由紀夫
西郷嫌いの日本人も少なくない。若い頃の三島由紀夫も西郷嫌いだった。43歳になって初めて彼は「銅像との対決―西郷隆盛」という告白文を書いている。以下に一部抜粋。
「西郷さん。明治の政治家で今もなお“さん”づけで呼ばれている人は貴方一人です。その時代に時めいた権力主義者たちは、同時代人からは畏敬の目で見られたかもしれないが、後代の人たちからなつかしく敬慕されることはありません。あなたは賊として死んだが、すべての日本人は、あなたをもっとも代表的な日本人と見ています。・・・
恥ずかしいことですが、実は最近まで、あなたがなぜそんなに偉いのか、よくわからなかったのです。私にはあなたの心の美しさの性質がわからなかったのです。それは私が、人間という観念ばかりにとらわれて、日本人という具体的問題に取り組んでいなかったためだと思われます。・・・
しかしあなたの心の美しさが、夜明けの光のように、私の中ではっきりしてくる時が来ました。時代というよりも、年齢のせいかもしれません。とはいえ、それは日本人の中にひそむもっとも危険な要素と結びついたうつくしさです。この美しさをみとめる時、われわれは否応なしに、ヨーロッパ的知性を否定せざるをえないでしょう。
あなたは涙を知っており、力を知っており、力の空しさを知っており、理想の脆さを知っていました。それから、責任とは何か、人の信にこたえるとは何か、ということを知っていました。知っていて、行ないました」
⇒名文です。さすが三島由紀夫。
腐れ儒者
西郷は常に青年たちに広く学問をすることをすすめたが、いわゆる「腐れ儒者」になることはすすめなかった。文字の解釈にこだわりすぎ、一学派に偏した知識のくらべ合いは無用である。大志を持つと共に内省を忘れず、徳を身につけて、大局を見る目を養い、難局に対処する力を養えと教えた。「男子は人を容れ、人に容れられては済まぬと思うべし⇒男子たるものは人のあやまちや欠点は許すが、自分の欠点をも人に許されようなどと思う甘え心は禁物である」の一句は味読すべきである。
13人の子ども
西郷精神と西郷党は明治10年の城山で滅んでしまったわけではない。西郷の死の直後に親友板垣退助を中心に「愛国公党=自由党」が結成され、頭山満によって玄洋社が組織された。この2つの結社は藩閥政府と戦い、人民の自主独立とアジアの防衛のために挺身する多くの死士を生んだ。
日本人の真精神はこの流れの中に生きて、西洋崇拝の功利主義者、権力主義者どもの脅威となり、幾度か国の危機を救った(この辺は大東亜論by小林よしのり、が詳しくかつ面白い)。日清、日露戦争は共に苦しい戦いであり、最後の大東亜戦争は大敗戦に終わったが、日本はとにかく生きのびた。敗戦を悔やむことも恥じることもない。犠牲は大きかったが、人類の最悪の犯罪にして世界史の恥辱ともいうべき植民地主義は、日本の捨て身の健闘によって止めを刺された。
アジア、アフリカ、中南米にまき起こった民族独立の波は明らかに大東亜戦争の効果であった。余波はまだ静まらぬが、世界の民族は世界史上初めて平等に向かって進みはじめた。かつてナセル大統領は辻政信に言ったという。「日本人は何も世界に謝ることはありません。子どもを13人も生んだ母親が少しくたびれたからといって気を落とすことはない。子どもたちはやがて成長して母親に心から感謝するでしょう」当時の植民地から独立した新国家はまだ13カ国であった。その後子どもたちの数はさらに増えた。
文明とは
「文明とは道徳と大義の心が国民のあいだに行きわたることであって、宮殿の荘厳、服装の美麗、外観の派手やかなことを言うのではない。今の世の人が唱えるところを聞いていると、何が文明か何が野蛮かさっぱりわからぬ。真に文明国なら未開の国に対峙する時は、慈愛をもととし開明に導いてやるべきなのに、未開で何も知らぬ国に対するほどむごく残忍なことを行なって、おのれの利益を図るのは野蛮だ」
学問の態度
知行同一は陽明学の真髄であり、西郷は王陽明の「伝習録」、佐藤一斎の「言志四録」などを熟読して、これを己の信条とした。聖賢になるというのは、功名を立てて高位にのぼることを意味しない。心を練って、言と行が一致する真の徳をそなえた真人物になることであるから、出世することよりもむずかしいことかもしれぬが、志次第で不可能ではない。「論語読みの論語知らず」では学問に志した甲斐がない。聖賢になれぬとあきらめてしまうのは、戦場で逃げ出すことよりも、もっと卑怯なことだ。ただの口舌の徒、口先ばかりの才子になるのは、学問の目的ではない。
まだまだ自分は、「論語読みの論語知らず」だということを痛感しました・・・・
いったい僕はどのくらい彷徨っているのだろう♪
いつになったら夜が明けるのか♪
林房雄がこの本を書いた1974年の曲。
ジャクソン・ブラウンで、レイト・フォー・ザ・スカイ♪