「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
⇒他にすることもないので、終日、すずりに向かって心に浮かぶことを脈絡もなく書き綴ってみたが、世間からすれば「狂っている」と評されるものになってしまった。
なんか今の時代のSNSみたいっすねw
ずっと読みたいと思ってた徒然草。今から7百年前のエッセイです。こういう書物は訳者によるのですが、ひろさちや氏の編訳なら申し分ありません。
ひろ氏によると本書は全文から3分の1だけ選んでます。現代人が読んでちっとも楽しめない事柄を省いたとのこと。当時の朝廷や武家の礼式や法令、武具や装束を論じたものなんかです。こちらにそれに関する知識がない。そこが古典と現代文学の違いです。
兼好の生家の卜部家(ウラベと読む。室町時代に吉田姓になる)は神祇官でした。諸国の宮社を総括する官庁です。兼好自身も若いころは朝廷に仕えていました。しかし彼は三十歳のころに出家遁世して法師になります。つまり世捨て人です。
兼好法師はリッチでした。彼は出家したときに京都の山科に水田一町(三千坪)を購入し、4~5人の農民に貸し出し、年間十石の年貢米を得ていました。昔は人間一人が年間に食べる米の量は一石というのが標準なので、兼好の生活は相当に裕福なものでした。
日本三大随筆の「方丈記」の鴨長明は、世を拗ねて世捨て人になった人です。当時の最新楽器の琵琶で、禁じられた曲を奏でたのを密告され、出世の道を閉ざされました。だから方丈記は世間に対する執着があり、世間を鋭く非難、攻撃しています。一方で兼好は世間を、わりと暖かい目で見ています。彼はきっぱりと未練なく世を捨てたからです。
以下に心に残ったものを。
難点のある人・ない人
万事につけて難点がないようにしようと思えば、何事に対しても誠実で、誰に対しても礼儀正しく、口数を少なくするのが一番だ。男であれ女であれ、老人であれ若者であれ、そういう人が理想であるが、とくに若くして容貌もすぐれている人で、言葉づかいが端正なのは、忘れがたく、心が惹かれるものである。
逆に難点のほうは、物事に習熟しているかのように利口ぶり、得意げな様子をして、人をないがしろにすることである。
勝とうと思うな
双六の上手な人にその秘訣を尋ねたところ、「勝とうと思って打ってはいけない。負けないようにしようと打つべきである。どの手が早くに負けるかと思案して、その最悪の手を使わずに、少しでも遅く負けるほうの手を選ぶべきである」身を治め、国を保つ道もこれと同じである。
兼好法師の「つれづれ」とは何か
岩波古語辞典によると、つれづれは、
①物事がいつまでも変わらず長く続くこと
②手持ち無沙汰で退屈なこと
③ひっそりと閑散な様子
④求めることが満たされず、そのまま続くこと
⑤じっと思いをこらすさま
⑥普通、ありふれたこと。
ひろさちやの考えでは、退屈ではなくてもっと積極的な意味で「自由に使える時間」、「ゆとりの時間」と解釈している。
江戸の庶民は1日4時間ほどしか働かなかったそうだ。狩猟民族のアフリカのブッシュマン(カラハリ砂漠のサン民族)でさえも、1日の平均労働時間は2.4~3.6時間ほど。昔の人はふんだんに良質な時間を持っていた。
兼好法師の場合は生活の心配がないので、1日24時間がすべて良質な時間だった。その良質な時間が「つれづれ」である。
みなさんは良質な時間をお持ちですか?
時は傷を癒してくれるけど♪
すべてを奪っていく♪
時は征服者♪
ジャクソンブラウンで「時の征者」 Time The Conqueror♪