江戸時代。酒1合の値段は4文=50円だった。安い!

大人のワンダーランド居酒屋。酒飲みにとってはディズニーランドよりワクワクする所です。美味い酒と珍味なものをちょこっと食って、いい店なら1人3000円前後で楽しめます。

こんな楽しいところは、いつからあったんだろう?と思ってましたが、そのものズバリの本を見つけました。著者が丹念に参考文献を読み解きまとめた、江戸の酒文化史。

「江戸に幕府が開かれると、新興都市江戸にはたくさんの人が集まってきた。その多くは男性で、江戸は男性都市としてスタートした。町には早くから酒を売る酒屋ができ、やがて煮物を売る煮物茶屋が現れた。酒屋や煮物茶屋では客に酒を飲ませていたが、それは本業ではなかった。それに対し、客に店で居酒をさせることを本業にする店が現れてきた。それが居酒屋である。江戸という特殊性を持った都市の中で、居酒屋は非常な発展を遂げ、今から200年前には、飲食店のなかで一番多い業種に成長していた。」

「1811年に行われた調査では、江戸の町には1808軒の居酒屋があった。業種別で居酒屋が一番多い。当時の江戸の人口は100万人と推定されているので、553人に1軒の割合で居酒屋が存在していたことになる。

今の東京にも居酒屋は多い。総務省統計局の2006年調査では、「酒場・ビアホール」は2万3206軒となっている。この「酒場・ビアホール」には「大衆酒場、焼鳥屋、おでん屋、もつ焼屋、ビアホール」が含まれているので、江戸の居酒屋に該当するものと考えられる。2006年の東京の人口は1266万人なので、546人に1軒の割合で「酒場・ビアホール」が存在している。200年前とほぼ同じ数字であることに驚かされる。」

すごい、著者の大発見じゃないですか。本書によると江戸の居酒屋は1750年前後に現れて、1815年ごろまでに著しい発展を遂げたと。1815年の江戸の飲食店番付には、料理屋、菓子屋、餅屋、蕎麦屋、すし屋など25業種、合計159軒の飲食店がランク付けされて、この中には6軒の居酒屋の名が見られると。1800軒以上の居酒屋の中から選ばれた6軒、どんな店なのか。行ってみたい・・・

なんで江戸で居酒屋が大発展したか。読んで感じた大きな理由は2つです。

ひとつ、男性都市のコンビニだった。八代将軍吉宗の時代1721年の調査によると、町方人口は男性32万3285人、女性17万8109人、男性が女性の2倍近い数字になっています。18世紀を通じて江戸町人の人口は男性が極端に多かった。当然独り者の男性も多かった。

さらに江戸の長屋の台所は不便で狭く、冷蔵庫もなく、インスタントなどの保存食品もない時代です。家ごとにカマドはついてましたが火をおこすのは大変でした。火打ち石で打ち出した火を火口に移し、付け木に移し、付け木を火種にし焚火に着火させる。独身男性にはとにかく面倒です。

もうひとつ、格安だった。文化7年1810年では、にごり酒1合が4文で飲めました。だいたい50円です(米1石150kgが1両、7万5000円として1文が13円換算)。

有名な豊島屋酒店は、1746年の時点で格安商売を始めてました。店を拡げて酒、田楽、豆腐を元値で売って、毎日空き樽20を小売しました。酒と料理を原価で売って、副産物である空き樽を販売してそのカネで儲ける。なんともはや凄まじい。現代の牛丼屋より凄いです。

江戸の行商人、中間、小者、馬士、籠かき、船頭、日雇いなどがどっと押し寄せた。当時の豊島屋の風景です。

居酒屋の誕生

以下にその他の読書メモを。



江戸は現代以上に呑み倒れの町だった

19世紀前半、江戸市民は毎年90万樽超の酒を飲んでいた。90万樽として5万6700キロリットル。当時の江戸の人口100万人でわると、1人あたり1日155mlの酒を飲んでいた。

平成23年の東京では1人あたり1日255ml、全国平均は182ml。ただしビールが半分ほど占めているので、アルコール純分で比べれば、江戸市民は東京都民に劣らず酒を飲んでいた。

寛政7年の「軽口筆彦話」には、江戸の呑んだをれ、京の着だをれ、大阪はくひだをれといった三都の比較がみえる。

⇒今と同じだけ酒を飲むなんて、豊かですよねぇ。

1500年代から西洋人から見た日本人は異常な飲み方

1585年宣教師のルイスフロイスの「日欧文化比較」によれば、「西洋人は自分の欲する分を飲み、人からしつこくすすめられることもない。日本では非常にしつこくすすめ合うので、あるものは嘔吐し、あるものは酔っぱらう。」「西洋人は酒を飲んで前後不覚になるのは大きな恥辱であり、不名誉である。日本ではそれを誇りとして語り・・」

⇒この文化、連綿と引き継がれてますよね。

1726年、大岡越前は白タクを許可した。

当初江戸市内では身分のあるものしか乗れなかった。次第に緩和され1703年の貸駕籠数調査によると、1273艇を数えた。2500人以上の駕籠かきがいたことになる。幕府は1713年に駕籠の数を制限する政策を打ち出し、300艇に限ってそれに焼印を押して渡し、そのほかの貸駕籠の営業を禁止した。

このため多くの者が生活に困り、無印の駕籠(今でいう白タク)で仕事をするものが増え、取り締まりにあって難儀していた。1726年に南北2人の町奉行が、無印駕籠の勝手次第を許可してよいか幕府に伺い書を提出。幕府はこれを承認した。当時の南町奉行の名は、大岡越前守忠助。これで誰もが気楽に駕籠に乗れる時代になった。

⇒さすが大岡越前。

江戸の町は「移動コンビニ」があり便利だった。

町方の労働者のうち、早くから多くいたのは荷商人と日傭取(日雇のこと。土木工事の人足、米屋の精米する人、荷物を運搬する人など)。

荷商人とは振売のことで棒手振ともいった。今でいう移動コンビニ。1659年には江戸北部だけでも5900人に達し、当初は振売札を公布し管理していたが、有名無実化し自由放任になった。

式亭三馬の「浮世風呂」には、食べ物関係だけでも以下のような振売が時間差で登場する。

午前中:納豆売り、金時売り、あさりハマグリのむき身売り、しょうゆのもろみ売り、漬物売り、南蛮漬け売り、青物売り、魚売り。

昼頃:あやめ団子売り、豆腐売り、かば焼き売り、白酒売り

午後2時:甘酒売り

夜間:大福もち売り、ゆで卵売り、おでん売り、汁粉売り、夜鷹蕎麦売り

⇒さすが江戸。結構便利な生活かも。



カン酒の歴史

16世紀後半に清酒が生まれると、オールシーズン酒をカンして飲むようになった。ロドーリゲスの「日本教会史」には、「現在では1年中あらゆる時期を通じて、皆の者が熱い酒を一般的に用いる」と書かれている。ロドーリゲスが日本に滞在ししたのは1577~1610年。ルイスフロイス(在日1563~1597年)も、「われわれの間では葡萄酒を冷やす。日本では酒を飲むとき、ほとんど1年中いつもそれを温める」と日欧文化比較に書いている。

世界的にみて、日常的に酒をカンして飲むのは日本酒と紹興酒だけのようであるが、中国では紹興酒のカンは暑い時期は行われていない。江戸時代の日本では1年中酒をカンして飲んでいた。

⇒やっぱり冬場は熱燗が最高です。夏場はワイン飲んでますが。

ふぐ鉄砲となぜ言うのか?

ふぐは鉄砲の異名をとっていた。そのいわれは「物類称呼」安永4年に、「ふぐは、江戸にて異名を鉄砲と云う。その故はあたると、たちまち死すと云う意なり」とあり、ふぐを鉄砲と称することは元禄時代には始まっている。

江戸の居酒屋は男性店員ばかりだった

「酒はカン、肴は刺身、酌は髱(たぼ)」という言葉がある。ほどよいカンの酒で、刺身を肴に、美人の酌で酒が飲めれば最高、といった意味である。刺身は文化年間(1804年~1818年)ころには居酒屋に登場していたが、美人の酌は無理だった。女性を同伴して居酒屋に行くことはあまりなかったようだし、居酒屋の店員は男性ばかりで、酒を運ぶサービスをするのは男性だった。

⇒時代が変わっても、最高の喜びというのは変わらないんですね。

必死になって働いて♪
僅かなカネを手に楽しむ土曜の夜♪
もちろん美しい彼女と一緒さ♪
それが南部の喜び♪

アラバマでデキシーランド・デライト♪全米最多優勝を誇る「クリムゾンタイド」の応援歌で有名です。1試合平均観客数は12万人。阪神の六甲おろしよりすごい。

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