中国がどれほど残虐かというのは、その刑罰を見ると一目瞭然です。
中国文化の中に他の国々の文化を圧倒するものがあるとすれば、その刑罰の残虐さこそが代表的なひとつ。
中国が他の国々と決定的に違うのは、残虐な処刑方法の種類の豊富さに加えて、それらがきちんと法整備され明文化されていたこと。そしてそれらが近代まで続いていたことです。
以下に残虐な刑罰の概要を「禁断の中国史」から。
繊細な方は読むと気持ち悪くなるかもしれないので、本日はここまでとして下さい。
ちなみに写真の美女は、中国三大悪女の武則天(ファン・ビンビン)です。
目次
残虐な死刑
斬首(ざんしゅ)
中国では最高刑ではない。これは幸運な部類。なぜなら一瞬で死ねるから。
腰斬(ようざん)
斬首より一段上の刑。胴体を真っ二つに切断する。古い記述を見ると、切断されてもしばらくは意識があったようだ。その意味で斬首より残酷な刑。しかしこれも幸運な部類の処刑。
凌遅(りょうち)
生きながら肉を小刀で切り取っていくもの。「百刀の刑」と宣告されたら、罪人は百回肉を切り取られる。数が多いほど過酷な刑。記録には3357回が残っている。これは極端だが1000回ぐらいの切り取りは普通に行われていた。
これを実行する刑吏も大変。1000回切り取る刑で900回の時点で罪人が死んでしまった場合、下手をすると刑吏が罪に問われるから。
炮烙(ほうらく)
油が塗られた焼けた銅の筒を下から火であぶり罪人を裸足で歩かせ、罪人は苦しんだ挙句に足を滑らせて火の中に落下して命を落とす。
剥皮(はくひ)
人間の皮を生きたまま剥ぎとる刑。もとは顔の皮を剥ぐものだったが時代が下りより多くの皮を剥ぐようになり、明では全身の皮を剥ぐようになった。明の初代皇帝は剥皮が特に好きで多くの部下をこの方法でころしている。
車裂(しゃれつ)
人間の首、両手、両足に縄をかけ、それを5台の車で引っ張って引きちぎるという刑。馬や牛に引かせることも多かった。
漢の初代皇帝である劉邦は日本では何故か人気が高いが、本当の姿は義理人情に薄く、残忍な性格だった。劉邦は天下を取ると次々と功臣たちを処刑している。ほとんどが「凌遅」や「車裂」という残虐刑で、子や親や妻、親戚一族を皆殺しにした。
車裂は唐の時代以降はほとんど行われなくなった。一瞬でころすには手間がかかりすぎた。それよりも小刀で肉を削り取ったり、皮を剥ぐほうが楽だった。
烹煮(ほうしゃ)
釜茹での刑。日本でも石川五右衛門が処刑されたが特別にされた。日本では釜茹での記録はほとんどない。
項羽と劉邦もこの方法で何人もの敵をころしている。烹煮で処刑された罪人の身体はしばしば食用にされたようだ。その記録は多数残っている。殷の紂王は人質にしていた周の文王の息子を釜茹でにして肉汁にし、父の文王に食べさせたという記録がある。
人肉を食べる習慣は中国の伝統的なもの。
剖腹(ほうふく)
罪人の腹を裂くという刑。
抽腸(ちゅうちょう)
腸を引き出すという刑。明の初代皇帝が好んだ刑。方法は肛門から鉄のカギをつっこみ、大腸を引っ張り出すというもの。するとずるずると小腸まで1本の長い腸が全部抽出される。
死刑ではない刑罰
割鼻(はなそぎ)
鼻を削ぎ落す刑。大昔から行われていた。鼻を削がれた男は人前に出ることができず、辺境の関所の衛兵になった。
秦の始皇帝がこの刑を好み、征服した国の兵士や農民の鼻を片っ端からそぎ落としたことで、町によってはほとんどの者が鼻を削がれたため、逆に鼻のある顔の方が醜いとされたという話もある。
漢の時代に割鼻は廃止。鞭打ちに変えられたが漢が滅ぶとまた復活した。魏の曹操も敵の将軍や兵士の鼻を何度も削いだ話が残っている。
元の時代には正式な刑罰として復活。一例をあげると、牛馬の窃盗は鼻削ぎ。ロバを盗んだ場合は初犯は入れ墨、再犯は鼻削ぎ。
ただ鼻削ぎはヨーロッパやイスラム社会や日本でも割合近代まで行われていた。近年でもアフガニスタンでタリバンが、結婚先から逃げた妻に鼻削ぎを行ったというニュースがあった。
截舌(せつぜつ)
舌を切り取るという刑罰。正式なものではなく、しばしば皇帝が気まぐれに部下に対して行うものだった。耳に痛い進言をされた場合に「もうお前の言うことは聞きたくもないわ」と執行された記録がいくらでもある。
他にも体の一部を切り取る刑罰は、目つぶし、断手、足切りといくつもある。
宮刑(きゅうけい)
男性の一物を切り取る刑。かなり広く行われた。中国の一般刑。あれほど多くの宦官がいたのは、宮刑が相当広く行われていたという背景もあった。
宮刑の有名人は数多くいるが最も著名なのは司馬遷。漢の武帝に進言したことで機嫌を損ね宮刑にあってしまった。
司馬遷は死を決意したが、史記を完成させたいと思い直し、地下室にこもって「史記」を完成させた。漢の武帝は7万人の男を宮刑に処したと言われている。
なぜ残虐な刑を行ったのか
処刑を楽しんでいた
残虐刑の公開処刑には常に大勢の一般庶民が見物に集まった。これらの処刑を国全体で楽しんでいた。
社会学者の説
民族構成が原因。昔から非常に多くの民族が入り乱れていた。隋や唐は鮮卑族、元はモンゴル人、清は女真族で、いずれも少数民族。大多数の漢人を統治するためには、残虐な刑で恐怖政治を敷く必要があった。
一見もっともらしい説だが、漢や明は漢人の国だが残虐刑は一向に減らなかった。明帝国は「皮剥ぎに始まり皮剥ぎに終わった」と言われているほど。
南京大虐殺が虚構の証拠
中国側が証拠としている処刑、腹を切り裂いて日本兵が内臓を食べたとか、強姦した女性の性器に棒を突き刺してころしたとか、ハリガネで手を縛り高圧線にぶら下げたとかの処刑方法は、日本の歴史書に出てこないもの。それらは中国人自身が伝統的に行ってきた処刑方法だ。
電線の話は、かつて元が日本を襲ったとき、さらった島民の手に穴をあけ、船べりに並べて吊り下げたことを思い起こさせる。
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