桑田佳祐と原由子は1982年2月26日に入籍します。桑田の誕生日でした。桑田佳祐26歳、原由子25歳。
当時の印象。なんで桑田ほどの人気者が原由子と結婚するの?
「エリー」や「シンドバッド」、「C調言葉」などの大ヒット曲はあったし、どんなアイドルでも桑田が望めば結婚できるのに、なぜ?って思ってました。子ども心に。
今ならわかるけど、結婚ってルックスじゃなくて、価値観なんですよね。桑田のその時の判断は、人生の正解だったと思います。
しかしなぜ奥さんとして原由子を選んだのか?
今回桑田佳祐の自伝的な本を読んでみて、はじめて納得した気がします。原由子は、2回生の桑田が勝ちとった女性だったんです。彼にとって価値ある女性でした。
「ピストン桑田とシリンダーズ」 「青学ドミノス」 青山学院大学でバンド活動に熱中し、最初に「温泉あんまももひきバンド」なるグループを組んだ後は、冒頭のようないろんな名前で、あれこれコンサートをしたものでした。
そうそう、アタクシ二年生になった時でした。新入生としてAFT (青学のフォークサークル)にやって来たのが、 原由子さんです。
流暢に生ギターを弾く彼女はエリック・クラプトンが好きだというので、「お、キミ話分かるじゃん」と意気投合。その上、キーボードまで弾けるというんですから(コッチの方がギターよりもっと上手かった!)、 「バンドやろうぜ!」と声をかけるのはそりゃ当然です。 ところが、性格が真面目で歌も上手いし「即戦力」の彼女は、色んなバンドから誘いを受けて、引っ張りダコ!! そこをナンダカンダとなだめすかした挙げ句、やっと僕のバンドに参加してもらうようになったのです!!(汗)
でも向こうにしてみれば、最初は僕がなんだかいかがわしそうで、すごく胡散臭く見えたみたい。「チャランポランな感じだし、あの人には近づかないようにしようね」 って、当時組んでいた友達と話してたらしいんですよ。
音楽さえやれていれば満足で、他のことは知ったこっちゃない! というスタンスだったアタクシ、確かに“悪目立ち”していたのかもしれませんな。
本書は文春の連載(2020年1月~2021年5月)66記事に加筆修正した本です。何点か残しておきたい読書メモを以下に。
桑田佳祐、ブライアン・ウィルソンに出会う
ブライアン・ウィルソンの初来日は1979年だそうです。「ジャパンジャム江の島′79」。TKO、ファイアーフォール、ハート、サザン、ビーチボーイズ。なぜかサザンが混じってる。セトリはハート、サザン、トリがビーチボーイズの順番。
ビートルズ初来日時のドリフターズ的な存在です。スゴイ。
ハートが盛り上がって、直後のサザンが外人からのブーイングで大変だったそう。個人的にはファイアーフォールは、数枚LPを買ったわりと好きなAORバンドです。
出演者及び関係者控え室となった、ヨットハーバー脇コンクリート造りの二階建てビルには、様々な人種、男女、もはや誰が誰だか分からないほど人々が行き交い、笑い声や歌声がコダマしていた。
ビーチ・ボーイズのヴォーカル、 空手で右腕を折ったというマイク・ラヴさんや、ブルース・ジョンストンさんらにサインをもらったり、写真を撮ってもらう宮治とアタシ。 そして、二人で屋上に上がると、そこには身の丈百九十センチはあろうかという白人男性が、ひとり海の方角を見やり、虚に佇んでいる。 「あっ!!」と、声を上げたのは宮治だが、すぐさま彼はアタシに囁くように言った。「ブライアンだよ・・・・」
ガチなビーチ・ボーイズ・オタクの宮治にとって、ブライアン・ウィルソンさんは「憧れの人」以上の存在だろう。 しかし、宮治は気遣うようにブライアンさんには近づこうともせず、アタシを促しながら踵を返し、静かにその場を離れた。
その時、ブライアンさんの体調は、すこぶる悪かったんだと思う。 八〇年以降も、彼の健康状態は悪く、ステージに立つ事はしばらくなかったという。アタシはと言えば、そんなビーチ・ボーイズの「音楽的偉大さ」に気づいたのは、それに遅れる事九〇年代に入ってからだった。
そして、凄まじかったのは米兵たちの盛り上がり! 横須賀、横田、座間 の米軍基地から数千人の米兵たちが、バスや電車に乗って集結したとされる。 正確な人数を把握出来ていないようだが、客席を見渡せば、その頃「フエス慣れ」なんかしていない 「遠慮がちな」日本人客に比べると、明らかに米兵たちの振る舞いや存在感ばかりが目立っていた。
桑田佳祐の選ぶ、無人島レコード
いきなりですけど、質問してよろしいですか? 無人島に一枚だけアルバムレコードを持って行くとしたら、あなたは一体何を持って行きますか?ウーン悩む、これは悩みますなぁ。 でもそうね、アタシだったらやっばり『McCartney』 だろうなぁ!!
その名の通り、ポール・マッカートニーのファースト・ソロアルバムでございます。 ザ・ビートルズが解散することになって、メンバー各々がバラバラに活動するようになった頃、本丸のアルバム 『Let It Be』に抗うがごとく、周囲の反対を押し切ってまで発表したのが、ポール様のこの一枚でありました。
世紀のバンド解散という、大事件の最中だったせいか、アルバム全体に、どうにも拭い去れない孤独感がこびりついていて・・・。 アタシにとっては、そこがなんとも無性にタマラナイのであります!!
一九七〇年四月に発売。 全英チャートこそ二位に甘んじたものの、アメリカの「ビルボード」誌では三週連続の一位を獲得。 年間ランキング第九位。
アメリカだけで二百万枚の売り上げ……。
まあ、この結果だけ見れば、さすがポール様だと言えましょう。 しかしながら、当時の音楽評論家やマスメディアからは、相当に「こき下ろされたり」「酷評されたり」といった、手厳しい洗礼を浴びる事となった 『McCartney』。ビートルズ・ファンも含めて、「頭の硬い」「保守的な」人たちにとっては、パーソナルな要素が随所にちりばめられ、収録曲の半分くらいをインスト・ナンバーが占めるこのアルバムを、「駄作」と捉えた向きも多かったようであります(はい、正直アタシも当時はそう思いました)。 いろんな意味で、その時代は彼にとって分が悪かったり、逆風が吹いていたんでしょうなぁ(汗)。
今から五十年も前に出たこのアルバム。 最初の思いはどうあれ、今日までアタシは、何百何千回とコレを聴いて参りました。 確かに「名作」とは言い難いけれど、「今の時代が追いついた」としか言いようがないほどの斬新さ奥深さ。アタシの人生において最も「心の拠り所」となったのが、この作品であります!!! 今でこそ 「宅録」など当たり前の時代。ビートルズ解散のゴタゴタで、身も心もズタボロとなったポール様。自宅に引き籠り、四トラックの録音機材と向き合いながら、歌も演奏も全てひとりでやり遂げた、元祖「ハウス・ミュージック」のようなアルバム。
みなさんの無人島レコードはなんですか?
『ポップ・ソングがいちばん深く、じわじわと自然に心に沁みこむ時代が、その人の人生で最も幸福な時期だと主張する人もいる』とは村上春樹「一人称単数」の名言ですが、やっぱ14歳ってポップソングが沁みるんですよね。1956年生まれの桑田にとって『McCartney』は14歳の時に聴いた作品です。
ぼくも14歳に買ったアルバムは今でもよく聞いてます。なんか癒されるんですよね。
長年活躍できる人は、やっぱ仕事がマメ
以下は原由子の「あとがき」です。いまだに仲がいいですね。一緒の寝室というのがスゴイ。
巣ごもりの日々は継続中。 明け方四時半ごろ、隣りで寝ていた夫が起き出す気配に、私も目が覚める。夫が私を起こさないようにと気遣っている様子なので、私もぐっすり寝ているふりをする。 洗面所に行ってからまたベッドに戻るのかと思っていると、そのまま書斎に行き、 電気スタンドの灯りをつけて何やら始めた気配。私は知っている。文春の原稿を書いているのだ。
思い起こせば、週一の連載をもたせて頂いて以来、週に二、三日はこんな感じだ。こういう事は以前からよくあった。 元々不眠症気味の夫だが、曲を作っている時などは、就寝中も頭の中で音楽が鳴ってしまうらしく、佳いメロディーや言葉が降りてきた時にはたちまち脳が覚醒してしまう。それを忘れない内にと書斎に行きボイスレコーダーに録音したり、ノートに書き留めたりする。 ライブ前も曲順や演出を思いつく度に目を覚まし、メモしたりメールを送ったりするのだ。それが済むとベッドに戻って来て、うまく行けば二度寝をする。 二度寝出来ずにそのまま起きてしまう日もあるけど。 私も少しでも長く眠れるようにと、就寝前にヘッドマッサージをしたり出来る限りの事はするけど、あまり効かないのかな(泣)。
そんな訳で、音楽に関しては夜も眠れない程全身全霊で取り組む夫だが、文春の連載にも全身全霊を懸けてるみたいだ!! そんな事を考えている内に私は二度寝してしまったようで、夫が朝方ベッドに戻って来て二度寝を始めた気配に気づき、安心して三度寝に入った(また寝るのかよ!)。 そんな朝であった。
桑田の語る、アミューズの大里会長
アミューズって、BABYMETALやPerfumeの事務所なので結構好きです。なんていうか日本の枠を超えた音楽家を生み出している。そのTOPはどんな人なのか興味がありました。
二〇二一年も気づけば四月。アタシもこれまでの人生、本当に色んな人と出逢って来たのだが、その中でも特に衝撃的だった方がお一人。そう。それは何を隠そう、我らがアミューズの会長、大里洋吉さんなのである!!!
大里社長(当時)がアミューズを設立したのは、一九七八年のこと。あれは大里さん弱冠三十二歳の時。サザンオールスターズも、縁あってそこにジョインさせてもらう事となったのだが。音楽業界の事はもちろん、世間の何たるかもさっぱり分からない学生風情。まさにそんな我々を、かの大里さんは親身になって、今日までビシバシと鍛え上げてくれたのである!!
今でも、たまに会うとフト気付くのだが、大里さんは殆ど「雑談」をしない。 ゴルフがどうの、お天気がどうの、女の子がなんちゃらといったやり取りは一切なく、いきなりその日に一番言いたいコト、つまりはビジネスの話をブチ込んで来るのである。しかも、そのビジネスの話というのは、 テーマほとんどが「夢」のような壮大な物語だ。
先日も久しぶりに、スタジオに単身乗り込んで来たかと思うと、いきなり 「五分、時間ちょうだい!!」「ねぇ、ミュージカルやらない? お前が全部音楽やるんだよ」「コロナが収束したら、○○○の上のステージでライブをやって、世界に発信しないか!」。この人のアイデアの「提案」には、「起承転結」の最初の三文字は無い。いきなり「結」から話を始めて、「何から始めるの?」とコチラが尋ねると、「だ~から、それは、お前と社長の中西で考えろ!!」といった無茶振りを、四十年以上繰り広げる。このクソじじい…。
昔からこの人とのミーティングには、楽しい中にも緊迫感があり、その博識ぶりと、奇想天外な発想に驚かされる。己の会社はおろか、世界規模レベ ルで社会全体を憂慮し、日本の明るい未来の一端を担おうと言う。熱意溢れるマシンガンのようなトーク。身振り手振りも交え、大里さんの情熱と迫力に気圧されるうちに、こちらも何だか「やれば出来るような」気にさえなって来るのだ。「そこまで会長が言うなら、やりましょうよ!!」と、アタシ。 「ありがとう、今日は話が出来て良かったよ」と大里さん。最後はアタシの目を真っ直ぐ見据え、推定約七十キロの握力で、硬い握手を求めてくる。い、 痛い….。 会長、顔近いし・・・・・・もう少し、 ディスタンスとってよ…… (汗)。
大里会長のカリスマ性とエンタメへの愛がスタッフやアーティストを始め、多くの人間の心を動かす。悔しいけどあの人、皆んなに愛されているのだ。 しかし、最近はお歳のせいか「ツッコミどころ」も満載だ(笑)。本人としては渾身の大ボラを吹いたつもりが、ミエミエですぐにバレる(笑)。声がデカ過ぎて、鉄板焼き屋の個室に居ても、店内に話の内容が丸聞こえになってしまう(汗)。文春さん、面白いからいらっしゃい。
会社のすべてのアーティストのライブにも足繁く通う。そこでアタシのMCや演出が気に入らなかった時は、「ナンだあの言い方は。あれじゃ相手に対して全く誠意が伝わらないだろ!!」と、遠慮会釈なくズバズバとダメ出しをしてくる。この因業ジジイと、アタシは心の中で思う。
特に手厳しいのは、歌を聴いてくださるお客さんへの姿勢に関する事。だけど、コレは大変ありがたい事だと思っている。言う方も相当な覚悟とエネルギーが要るだろう。しかし、そこを乗り越えて「ダメ出し」をしてくれる人が側にいるのは、実に幸せな事ではないか。
デビュー前、あらゆるプロダクションから「契約」を断られていたサザン。一縷の望みで最後のオーディション会場へ。そこに現れたのが、アフロ・ヘアーに幅広のネクタイ、タイトなジャケットに、パンタロンと上げ底靴を履いた大里さんだった(笑)。なんか業界っぽくて軽薄そうだなあ、と思ったアタシ。ややもすれば「落選」に慣れてしまっていたアタシらは、どうせダメだろうと思って『女呼んでブギ』や作りかけの『勝手にシンドバッド』を演った。あとで聞いたら、大里さんもデモテープを聴いた時点では、「断る」腹づもりでいたらしい。だが、縁は異なもの、『シンドバッド』を聴いて、これ一発だけならコイツらも売れるだろうと、瞬時にソロバンをハジいたとの事(笑)。結果は大里さんに拾われたわけだが、築いた関係性はその後もずっと続いている。
みんさんの好きな桑田の歌はなんですか?
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村上春樹の「一人称単数」って自伝(私小説)?
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donさん、こんばんは〜
原坊のエピソードを読んで、思わずAmazonで購入してしまいました。
いやー、読むのが楽しみです。ご紹介ありがとうございます。
お返しと言うほどではありませんが、「BLUE GIANT」という漫画にどハマりしました。おススメです。
無人島に行くならbeatlesの赤盤持っていきます。
桑田さんの曲なら真夏の果実が一番かなぁ。