最高に面白い一冊。多くの人に読んでもらいたい本です。特に司馬ファンと春樹ファンは、読んでおいてバランスをとったほうがいい。ぼくは目からウロコが落ちました。ポロロン。
司馬遼太郎と村上春樹は若いころから大好きです。村上春樹はエッセイや訳本も含めて9割以上、司馬遼太郎は「街道をゆく」を除くと、エッセイを含めて7割ぐらいは読んでるつもりです。
娯楽作品として読んでるので、深く考えないまま、その思想がすり込まれてたと思います。本書であらためて確認すると、結構2人ともヘンなこと言ってます。村上春樹の場合は、司馬史観をそのまま受け入れてるだけでしょうけど。
前置きはこのくらいで、以下に読書メモを(かなり要約してます)。
司馬史観とは
日本が大東亜戦争に敗れたという結果論から、昭和史および日本の近現代史を暗黒と破滅の時代であったとする、否定的な見方でとらえている。そしてその諸悪の根源はすべて、ノモンハンで日本がソ連に大敗北したことに胚胎するとし、ノモンハンの敗北をすべての誤りの象徴に仕立て上げ、日本現代史の暗黒の集約点にしている。
しかし最近の新たな研究により、ノモンハンは実は日本の大勝利だったことが明らかになり始めた。それとともに司馬史観の骨格もゆらぎはじめ、従来の司馬史観の誤りと呪縛から脱して、新たな歴史認識にいたる必要性が認識され始めている。
ビスマルクの言葉
「国家は敗戦によっては滅びない。国民が国家の魂を失ったときに滅びる」軍事力の裏づけのない国家は独立を保てない。たとえ一時的に経済が隆盛したとしても必ず衰亡していく。これは歴史の真理である。現在の日本は戦後70年にしていまだ国軍を持たず、憲法改正をされていない。米国に盲従し、国際社会で自国の意志をまともに発言できない。
村上春樹の思想
「ねじまき鳥クロニクル」のノモンハン事件、「辺境近境」でのエッセーなどから、司馬史観の考え方そのものであることがわかる。司馬遼太郎、半藤一利、五味川純平らの主張とそっくりそのまま瓜二つである。村上がノモンハン事件を調べるに当たって、この3人の著書を参考にしたことは間違いない。
「海辺のカフカ」の日本陸軍兵士の亡霊の「軍を脱走することが、人間として強く生きようと努力することだ」と主張する村上春樹の発想を見れば、彼の根底に巣くっているのは、非戦・反戦・兵役拒否の信念であろう。そしてこれらの言葉をまじないのように唱え続けていれば、いっさい問題ないと信じ込んでいる「念仏平和主義」の一人なのだろう。
はだしのゲンの嘘
「日本軍の兵士が首を面白半分に切り落としたり、妊婦の腹を切り裂いて中の赤ん坊を引っ張り出したり、女性の性器の中に一升瓶がどれだけ入るか叩き込んで骨盤を砕いて殺したり・・・日本が三光作戦という殺戮、ありとあらゆる残酷なことを同じアジア人にやっていた事実、それを指示した天皇を絶対に許さない」
汚らしい言葉が残虐画面とともにこれでもかと読者にぶちまけられるが、作者の指摘する「三光作戦」なるものは、中国の4000年におよぶ戦争文化の象徴であって、日本軍にはこのような清野作戦の伝統はない。日本軍がやったと著者の中沢が思い込んでいる残虐行為は、敗走する中国兵が民衆に対して行なったもの。
また作者の描いているこれらの殺戮場面の描写は、実は通州事件で中国兵が日本人住民に対して行なった残虐行為をそのまま借用している。北京北方の通州で260名の日本人居留者が中国の保安隊に身の毛もよだつような残虐な方法でなぶり殺しにされ、日本国内の世論は激高した。女性の遺体はすべて局部が串刺しにされ、幼児の遺体はすべて指が切断されていた。中国伝統の三光作戦によるこのような残虐ぶりは日本人には想像できない世界であり、民族文化の違いを如実に示している。
ちなみに松江市の「はだしのゲン」の小中学校図書館からの撤去は、朝日新聞の「子どもの学ぶ機会を奪うのは言語道断だ」との糾弾により撤回させられた。
坂の上の雲の嘘
乃木無能説でよく指摘されるのは、旅順攻防戦における戦術のまずさである。コンクリで覆われた旅順要塞にいたずらに肉弾攻撃をしかけ、最初の総攻撃失敗に飽き足らず、何度も馬鹿の一つ覚えのように同じ攻撃を重ね失敗し、6万人(戦死1万5000、負傷4万5000)もの死傷者を出した。最初に二○三高地を目標に攻撃していれば、1回の攻撃ですんでいたのに、彼らを犬死にさせてしまった。こういう批判である。
この批判は詳細に分析するとまったくの的外れである。肉弾攻撃というより実際は強襲法。数日間にわたり味方の砲兵の火力で徹底的に叩いて制圧した後、歩兵が突撃して敵の陣地を奪取するという極めて近代的な戦法。
旅順要塞攻防戦には西欧列強の観戦武官が参加して、戦訓を詳細にチェックしたにもかかわらず、その後の第一次世界大戦では各国が乃木とまったく同じ戦法を採用し、さらに大量の死傷者をだしている。ベルダンの戦い(ドイツ軍がフランスのベルダン要塞を攻撃)などは、1ヶ所の戦場でなんと75万人の戦死者を出している。つまり10年後のヨーロッパにおいてさえ、近代的な要塞を攻略するにはこれ以外方法がなかったということになる。
旅順があまりに難攻不落の要塞だったということと、攻める側の日本軍の砲弾が不足していたため援護射撃の効果があがらず、莫大な人的被害を出すことになった。砲弾不足は貧乏国家日本の宿命であり、それを乃木の戦術に責任転嫁するのは牽強付会。あの砲弾不足の中でよくあそこまでの戦果をあげた。・・中略・・
次に二○三高地である。二○三高地が旅順攻防戦の要であり、ここを最初にとっていれば、1回の攻撃ですべて決着がついたのだと司馬は指摘する。これもまったくの間違い。二○三高地は旅順要塞そのものを陥落させる作戦にとっては、ほとんど意味がない。旅順を陥落させる要になったのは望台の陣地で、第三軍は最初からこの望台の奪取を重点目標にしていた。
司馬説によれば「旅順攻防戦の狙いは、ロシア太平洋艦隊を全滅させることであり、それを達成すれば、あとは旅順要塞にこもっているロシア軍を放置して、奉天へ移動すればよかった」と指摘しているが、これもとんでもない暴論。5万近い精鋭を率いるステッセル将軍が背後を脅かすとなれば、奉天会戦どころではなく、旅順要塞は何がなんでも陥落させる必要があった。
また旅順港内に逃げこもったロシア太平洋艦隊は、かなりひどい損傷を負っていて海戦に耐えられる状態ではなかった。戦艦の砲台は外され陸上の戦闘に回され、第三軍が二○三高地を占領したときには、水の上に浮かんでいるただの鉄の箱に成り下がっていた。
事実、二○三高地をとられた後のロシア軍は、意気盛んで降伏の意思はまったくなかったが、望台をとられてようやく降伏にふみきった。
旅順陥落は資金繰りの面でも奏功した。難攻不落の旅順要塞を日本がわずか4ヶ月で陥落させたことで、日本の外債に申し込みが殺到した。旅順陥落が単なる一戦場での軍事的勝利にとどまらず、戦争遂行の資金面でも日本を有利に導いた。こうしてみると第三軍は、当初の正しい目標を着実に追い求めて最終的に達成したといってよい。
児玉源太郎の手柄の嘘
乃木希典と伊地知幸介をまるで馬鹿の骨頂であるかのようにこきおろし、児玉源太郎をあたかも神のごとく賛美しているが、ほとんど司馬の創作でありフィクション。児玉源太郎が満州の総司令部から旅順に乗り込んできて一時的に乃木の指揮権を代行し、すべて彼の命令どおり作戦を変更すると、わずか1週間で二○三高地が落ちてしまったという、坂の上の雲のハイライト部分。
児玉が旅順に乗り込んできたときには、第三軍が二○三高地を攻撃している真っ最中であり、彼はただ督励に赴いただけにすぎない。二○三高地は児玉が旅順に来ようが来まいが、所定の作戦通り落ちていた。児玉が乃木に代わって作戦を全面変更したように司馬は書いているが、実際には彼の助言で行なわれた戦術変換はほんの一部に過ぎず、作戦の大局からみればほとんど影響のないものだった。
ノモンハンの嘘
司馬遼太郎や半藤が「ノモンハンの夏」で強調したノモンハン論議の本質は、「高度に近代化されたソ連の機械化部隊に対し、貧弱な装備の日本軍が肉弾戦を挑んで、一方的になぶり殺しにされた悲惨な戦闘」。そしてこれは科学技術の軽視と非合理主義が近代日本の悲劇であった、とする司馬・半藤史観の原点でもあった。
「ノモンハンは近代日本の悲劇の原点である」
ソ連が崩壊し、極秘資料が公開されて初めて、ソ連の発表が嘘であることがわかった。それまでは日本の大敗というのが文句なしの通説だった。実際はノモンハンの日本軍は、兵器の質、装備、訓練度、戦意などでソ連軍を凌駕していたのである。
現時点でわかっているロシアの公文書によると、ソ連軍の死傷者は2万5565名、日本軍の1万7405名より多い。ソ連軍の死傷者の中には同盟軍として一緒に戦ったモンゴル軍の死傷者数は含まれていない。戦車は日本の損害が29台、ソ連が800台。戦闘機は日本の損害が179機、ソ連軍が1673機だった。ソ連軍の戦車は走行射撃ができない低レベルであり、戦闘機は布張り機もあった。
日本側は北進は不拡大の方針で、2万の一個師団で23万のソ連軍を相手に優勢に戦いを進めていたが、ソ連側が犠牲をいとわない人海戦術の大攻勢を仕掛けてきて戦況は悪化した。ノモンハンのたかが半砂漠の無人の草原地帯に、なぜそれほどソ連がこだわって大軍を投入してくるのか?
日本はさっぱり理由がわからなっかったが(理由は本書で)、事ここに到って日本の大本営も事態の深刻さを認識し、第二十三師団を救うために10万人の増援軍をノモンハン付近に派遣した。これをみたスターリンは恐怖に震えヒトラーに停戦の仲介を依頼し急遽停戦が成立した。
戦術レベルにおけるノモンハンの戦闘内容の真相があきらかになったいま、司馬・半藤史観は完全に破綻した。
ノモンハンが日本本土を守ったかもしれないという解釈
ドイツ降伏後3ヶ月もソ連に日本攻撃を思いとどまらせた理由は何か。帝政時代からの伝統であるが、ロシア人は強い相手には必要以上に慎重になり、容易に行動に出ない。ソ連は6年前のノモンハン事件の恐怖の記憶が脳裏にこびりついていたのである。一個師団わずか2万強の日本軍に23万人のソ連の大軍が翻弄され、日本より多くの死傷者が出た。しかも飛行機を1700機も撃墜され、戦車を800台破壊された。歴戦の将軍で独ソ戦の英雄であるジューコフ将軍が「自分の生涯で最も苦しい戦いはノモンハンだった」と述懐している。関東軍の存在はトラウマになっていた。ノモンハンでの日本陸軍の戦いぶりとその精強さの記憶が、第二次大戦の最後の土壇場の場面で、ソ連に日本攻撃を思いとどまらせた。
こうしてみるとノモンハン事件は、一個師団がほぼ全滅状態になるという悲惨な戦いであったが、兵士たちの死に物狂いの奮闘が、6年後に崩壊の淵に立たされていた日本の運命を救ったといえる。死せる孔明、生ける仲達を走らす。
5月8日にドイツが降伏した時点でソ連は日本に十分に侵攻、占領できたはずだ。そうなれば北海道や東北はソ連の勢力範囲になっていたかもしれない。日本は南北に分断された国家になっていた可能性がある。
海軍の暴走
海軍善玉、陸軍悪玉論がイメージとして定着しているが、実際は太平洋戦争は海軍の戦争だった。陸軍の基本戦略は大陸に向けられていて、とくに満州国建国以降、対ソ北進が陸軍の主眼。海軍の基本戦略は南進論。いかなる戦争も陸主海従であるが、1933年に海軍は陸軍を飛び出し独立王国を作ってしまった。そして独自の国防戦略を策定する。船頭多くして船山に登るという悲劇だ。
第二次大戦当時、日本陸軍は世界最強の軍隊だった。互角の装備で戦闘をやらせたら無敵だったろう。大東亜戦争で戦死した日本の軍人は200万人強と言われるが、その過半数が餓死と病死だった。かたや米軍の戦死は10万人にも満たない。史上類例のないワンサイドゲームになった。これほど惨めな恥辱にまみれた敗退戦はかつてなかった。
このようなワンサイドゲームを引き起こしたのは、無能きわまる馬鹿げた海軍の作戦である。山本五十六は補給戦を無視して戦線をどんどん拡大し、南方のジャングルに陸軍を置き去りにしてしまった。
石原莞爾の構想していた戦略は、いかに自分の犠牲を少なくし、効率よく戦って、名誉を守りながら戦争を終わらせるか。
以下酒田臨時法廷での石原莞爾の証人喚問
「私が戦争指導をやったら、補給戦を確保するため、ソロモン・ビスマルク・ニューギニアの諸島を早急に放棄し、戦略資源地帯防衛に転じ、西はビルマ国境からシンガポール、スマトラ中心の防衛線を構築し、中部はフィリピンの線に退却する。とくにサイパンの防御には万全を期し、この拠点は断じて確保する。米軍はサイパンを奪取できなければ、日本本土爆撃は困難であった。それゆえサイパンさえ守り得ていたら、当然五分五分の持久戦で断じて負けていない。蒋介石がその態度を明確にしたのはサイパンが陥落してからである。サイパンさえ守り得たなら、日本は東亜の内乱を政治的に解決し、シナに心から謝罪してシナ事変を解決し、東亜一丸となることができであろう」