【戦艦大和の画像】一次資料「海軍艦艇史」読んだので、戦艦大和の写真貼っときます

1974年初版、1982年5版の状態のいい本が図書館にありました。1巻が戦艦、2巻が巡洋艦、3巻が空母、4巻が駆逐艦、5巻が潜水艦です。4巻以降は未発売で著者・福井静夫が没。空母は1万2千円。戦艦は1万円だった。本当に貴重な一次資料だからそれぐらいするのでしょう。

著者は戦中の大部分を呉海軍の造船部設計係官として勤務。終戦後は第二復員局に勤務し帝国艦艇の処分とその技術調査を担当した。1952年以降は財団法人資料調査会にてこの調査を続行。この第1巻は終戦の日に発足し実に29年後に第1巻刊行を迎えたことになる。まるで「舟を編む」みたい。

「ここに帝国海軍の真姿を、その艦艇の英姿を中心として内外に公表しうることを喜ぶ。これを明治以来の父祖先人、海軍先輩に捧げ、国民各位への報告とし、将来の史家の資としたい」

全432pでほとんどが写真と寸評です。1pに1~2枚掲載されてるので500枚以上の戦艦の雄姿。元海軍技術少佐の著者と、東京学芸大の教授、三菱重工の技師、海人社社長の共著。

司馬遼太郎は「坂の上の雲」を執筆するとき以下のように語っています。「軍艦のことについては、福井元技術少佐(著者)から何度もくわしいお手紙を頂戴した」

wikiをはじめネットに転がっている戦艦の画像は、ほぼこの本からの出典。

日露戦争から大和まで。

ほんの一部ですが、以下にご紹介。



戦艦大和

ヤマトとは大いなる和。十七条の憲法の第一条が「和をもって貴しとなす」。和をなによりも大せつなものとしなさい。日本人の心ともいえる。

昭和16年9月20日呉にて艦装中の大和。呉の造船設計の橋本技術大尉が破壊せず自己責任で確保した原板を、終戦後に福井技術少佐(著者)に託した写真。

大和1941年9月20日呉

昭和16年10月20日全力予行運転の大和。宿毛沖。27.46ノット。排水量69,166t。広幡技術大佐から著者に託された写真。

戦艦大和1941年10月20日宿毛沖

昭和16年10月26日続航運転公試中の大和。状態未定。馬場技術少佐から著者に。

戦艦大和1941年10月26日

昭和16年10月30日宿毛沖。全力公試中。松本技術大佐より著者に。日章旗が美しい。

戦艦大和1941年10月30日宿毛沖

昭和16年10月30日宿毛沖。全力公試中。排水量69,304t、27.3ノット。1枚目と同じ橋本技術大尉より終戦後確保した2枚の原板より。原板は橋本大尉が転居時に破壊したが第2原板を福井少佐が保存した。

戦艦大和1941年10月30日宿毛沖2

ちなみに戦艦大和の全長は263m、全幅は38.9m。一般的に現在の船で一番大きいのはVLCCと言われています。全長333m、全幅60mぐらい。石油タンカーです。

20年ほど前に仕事の関係でVLCCを見学したとき、操舵室から写ルンですで撮った写真。ブリッジは船の最後部なので濃霧になると前が見えない。船首は300m先なので。

操舵室はブリッジの一番上のとこ。ちなみにVLCCの舵は自動車のハンドルより小さかった。

戦艦長門

1942年8月ミッドウエー作戦後柱島沖に待機中。すでに連合艦隊司令部は大和に移っていて、長門は第一艦隊旗艦。竹内大尉撮影。

戦艦長門1942年8月柱島沖

1944年10月21日。皇国興廃の決戦に出撃。左端より大和、武蔵、給油艦、最上、長門。見てるだけで涙が出てくる。なんでだろう。白石大尉撮影し著者へ。

戦艦長門1944年10月21日ボルネオ



戦艦陸奥

戦艦長門と同型艦の陸奥。1941年開戦間近の陸奥。この陸奥美しいですよね。山岡大佐遺品を富岡氏経由で著者へ。

1941年の戦艦陸奥

高速戦艦金剛

1936年11月14日館山沖。排水量37,003t、30.27ノット。第二次改装後。主機も缶も全部換装。艦尾を延長し高速戦艦となった。

高速戦艦金剛

霧島、榛名、比叡はすべて金剛型。写真は高速戦艦霧島と空母赤城。1939年4月27日宿毛沖にて著者撮影。当日はさわやかな天候で心地よい微風だったそう。赤城の巨体と高速戦艦の雄姿を1枚のネガに収めたいとかねて念願していた。当時著者は連合艦隊司令部付造船中尉で三隈の右舷探照灯台(煙突横)上より撮影。霧島と赤城

戦艦富士

日本最初の戦艦群たる6艦。富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠。1897年英国で最初に完成された富士。ロンドンのテムズ・アイアン・ワークスで建造。ほぼ完成時に軍艦旗を掲げ艦長以下乗員により、ヴィクトリア女王即位60年観艦式に参列。明治30年6月14日撮影。その後8月17日に完成引き渡し。スエズ経由で回航。富士は当時スエズを通過した最大艦。

戦艦富士

戦艦武蔵

1942年6月ごろの武蔵。呉沖。乗員が体操中。堀内技術少佐から著者に。

戦艦武蔵の甲板

1942年6月ごろの武蔵。呉沖。公試中。堀内技術少佐撮影。大和と武蔵の建造に一命を捧げた。ロッカーの中の遺品を夫人から著者が引き受けた。

戦艦武蔵ブリッジ

1944年10月22日武蔵最期の出撃時の写真。ブルネイ。10月24日、魚雷20数本、直撃爆弾20余発、至近弾多数により戦闘力喪失、万策尽く。19時30分総員退艦命令。武蔵の沈没に伴う戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平艦長以下1023名、生存者は1376名。

武蔵最期の出撃

もうひとつヤマトが出てくる映画です。邦画史上3本の指に入る傑作だと思う。いろんなことを考えさせられます。

現時点ではプライム会員は見れてます。まだ見てない人はおすすめ。日本人なら心がうち震えます。

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