新紙幣の人気投票すると、坂本龍馬だそうですが、龍馬人気は司馬さんがつくった。無名だった龍馬を発掘し、国民的スターにした。吉田松陰しかり、大村益次郎しかり。
いや没後50年は必要みたいなので、2024年はないか。2044年ならいいかも。没後48年。新渡戸の51年に近い。生きてるうちに、司馬さんの5千円札見たいなあ。
みなさんは司馬さん好きですか?ぼくは大好きです。「街道をゆく」以外、小説とエッセイは7割がた読みました。みなさんと同じように、司馬さんに関する思い出はたくさんあるのですが、今回は控えます。
司馬さんは作家であると同時に歴史家です。歴史を調べ、深く考えるという意味においての歴史家。
「歴史をつくる歴史家」。日本史上何人かいるそうです。強い浸透力を持つ文章と内容で書かれると、次の時代の歴史に影響を及ぼす。
最初のそういう歴史家は、「太平記」の小島法師。楠木正成をスターにした。楠木正成を手本に、日本の歴史は動いてきた部分がある。
その後、歴史に影響を与えた主要な歴史家は、3人しかいないそうです。200年前に「日本外史」を著した頼山陽。源平から徳川に至る武家の興亡史22巻。彼のこの書は、日本は本来天皇が治めていたもので、武家の世は借り物であることを知らしめた。明治維新につながる。
もう1人は徳富蘇峰。「近世日本国民史」100巻。国民国家日本の成り立ちの歴史を、豊富な資料を駆使して日本人に認識させた。
そして3人目が司馬さん。徳富蘇峰が司馬さんに及ぼした影響は少なくない。小説家にとって徳富蘇峰は歴史を描く際にたくさんの資料を引用するので、とてもありがたい存在。司馬さんもその影響を受けながら、さらに多くの資料を収集して、戦後日本人の歴史観をつくった。
戦後日本は、民主主義をともなった大衆社会を実現した。国民が文庫本を消費して、空前絶後の読書人口となる。その後テレビなど映像メディアも爆発的に発達し、人が本と映像にのめり込んだ時代。
司馬さんはその作品世界を大量の著書によって国民に提供。著作は日本家庭の書棚に入り込み、それが映画やテレビに翻案されていく。日本人の多くが、司馬作品を通じて日本の歴史に接し、歴史観をつくったといっても過言じゃない。教科書の歴史は無味乾燥で、ほとんどの人が歴史のおもしろさを司馬さんから学んだ。
歴史文学は史実に近い順に3つに分けられる。史伝文学、歴史小説、時代小説。司馬さんはほとんど歴史小説。「坂の上の雲」は史伝文学に近いといわれますが。
司馬さんと同様な歴史小説作家は、吉村昭や海音寺潮五郎。時代小説作家は、山本周五郎、池波正太郎、山田風太郎、藤沢周平。
みなさんが好きな司馬作品は何ですか?著者は「花神が司馬遼太郎全作品のなかで最高傑作」といってますが。
以下にその他の要約読書メモを。
革命の3段階とは
信長は「美しい女」を好んだ。秀吉は「高貴な女」を好んだ。家康は「産む女」を好んだ。新しい価値創造者が吉田松陰、実行家・革命家が高杉晋作、果実を受けとるのが山県有朋。
司馬作品の医者は偉かった
大村益次郎は、もともと村医者の子に生まれた。武士の世界と対局にある合理主義や科学的精神は、医者であったことも関係があるかも。
司馬さんは大村のほかにも、緒方洪庵や松本良順にも温かい目を向けている。松本は順天堂のもとをつくった人物で、それまでの医者が薬何袋でいくらと報酬をもらっているのに対して、どんな手術はいくらというふうに、処置ごとに点数を決めて、診療費をとることをシステム的に始めた。
この時代の蘭方医はほんとに偉い。緒方も松本もほとんど持ち出しで弟子を育て、さらに天然痘を撲滅するための種痘も大儲けができたはずなのにそれをせず、人を助けるために役立てるシステムをつくっていった。
もっとも偉かったのは、緒方洪庵の奥さん、八重だったかもしれない。13人の子供を産み育てながら、緒方洪庵が大阪に開いた適塾の暴れ者の世話もした。そのなかにはもちろん、福沢諭吉、大村益次郎、松本良順が含まれている。
「花神」のなかで、大村益次郎が緒方洪庵の「医戒」を暗唱する。「医師がこの世に存在している意義は、ひとすじに他人のためであり、自分自身のためではない。これが、この業の本旨である。ただおのれをすてて人を救わんことをのみ希うべし」
なぜ徳川幕府は倒れたのか?
武家政権の本質は軍事政権。軍事力を背景に国家の統治がなされている。それが名目だけになっても、武士が特権階級を世襲するという構造が保持された。
武士は日本全体の農業生産高の4割近くを家禄、つまり代々受け継ぐ報酬として受けとってきた(武家人口は約7%。含む女子供)。その武士が西洋の軍事力の前ではすでに役立たない。
農民が1週間で小銃を訓練すれば、軍事の専門家である武士に勝ってしまう。銃弾の前に、武士はまったくの無力であるということがわかってしまった。
日本史上の「魔の季節」
思想は人間を酩酊させる。日本人の酩酊体質。司馬さんがよく用いた表現。日露戦争の勝利が日本国と日本人を調子狂いにさせた。お国自慢の暴走が始まる。日本に戦争継続の能力はなかったが、講和条約を破棄せよ、戦争を継続させよと大群衆はいう。国民新聞をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽り立てた。
日比谷公園で開かれた全国大会は3万人が集まった。いわゆる「日比谷焼き討ち事件」。司馬さんはこれを「魔の季節への出発点」ととらえる。
日清戦争に勝ち中国に強い優越感を持もつ。今度は白人の国に勝つ。日本は世界の一等国に仲間入りした。といいはじめる。
日本人は前例にとらわれやすい「経路依存症」をもっている。前例主義。勝利の経験が「前例」にされてしまう。その結果、天祐があるから日本軍は士気が高く、兵器兵力不足を補って勝てる。という議論が横行する。それを司馬さんは特に問題視した。
近代日本を滅ぼしたものを司馬さんは特定している。統帥権。天皇が持っている陸軍と海軍を指揮する権限。具体的には陸軍参謀本部、海軍軍令部が直接天皇とつながって、軍隊を運用する権限。
明治憲法は今の憲法と同様、明快に三権分立だった。昭和になってから変質した。統帥権がしだいに独立しはじめ、ついには三権の上に立ち、一種の万能性を帯びはじめた。事実上、参謀たちはそれを自分たちが所有していると信じていた。
ついでながら憲法上、天皇に国政や統帥の執行責任はない。となれば参謀本部の権能は無限に近くなり、どういう愛国的な対外行動でもやれることになる。
要するに「統帥権があるぞ」と言い立てることで、軍が帝国議会や一般人を超越した存在となり、統帥権がひとり歩きをして、軍が天皇のいう事さえ聞かなくなる仕組み。
国家が統帥権の暴走を許してしまうのは昭和になってから。明治期は元勲・元老がいて、彼らが集団指導の体制をとり、明治憲法下の調整を行っていた。維新の功労者、元老が次々に世を去り、元老による軍統帥権の統制が利かなくなった。
海軍の軍縮が国際課題になった。軍縮は国策上は正解。アメリカと建艦競争をやったら負ける。でも軍縮すれば、艦長(中将)の数が減る。ポストがなくなる。軍縮を海軍内でいうと出世しない。
国務はすべて憲法上の規定により、担当大臣が責任をもつ。だけど統帥権はこの範疇ではない。
日露戦争の時は軍の失敗を議員が論難した。しかし昭和期になると、軍の失敗を批判すれば、「天皇の軍隊に対して文句を言うのか、不忠者!」となってしまった。