日本ウイスキーの父、まっさんの自伝「ウイスキーと私」は面白い。

ウイスキーが好きです。

とくにスコッチはブレンドスタンダードを10種類以上、12年物をブレンド、シングルモルト合わせて10種類以上、家でストレートで飲んで味を覚えました。基本を一通り飲んで思ったことは、世界のスコッチの12年物のシングルモルトでは、山崎、余市、マッカランの順に旨いということでした(個人的意見)。

ウイスキーの本も、図書館で何冊も借りて読みました。

基本中の基本の本書を読んでませんでした。で、まったく知らなかったのは、マッサン(竹鶴政孝)が山崎と余市を作ったという事。

世界で一番うまいウイスキーの、基礎を作った人の自伝です。日経の「私の履歴書」を基に、1972年ニッカが発行した単行本「私とウイスキー」(非売品)をNHK出版が改訂復刻し、新たに数名の巻末寄稿を加えた一冊です。

日露戦争後、日英同盟の時代、日本では誰もウイスキーの作り方を知りません。現大阪大学の醸造科を出て摂津酒造に入社し、社命で単身イギリスへ留学し、現地で現場作業、大学で理論を学びながら、ウイスキーの作り方を学びます。

夜はその日に習ったこと、見たこと、感じたことをその日のうちにノートに字と絵で書き留めていったそうです。このノートが、帰国後、京都の山崎工場で本格ウイスキーを作り始めるとき、大活躍したと。

リタとのロマンスもあり、非常に面白い一冊になっています。以下に読書メモを。



池田元総理の先輩

10歳の時、日露戦争が始まった。中学は今は竹原市に編入された忠海の中学に入った。3年生から寮に入った。昔の中学の上下の規律は軍隊に近い厳しいもので、寮はその縮図でもあった。下級生は上級生の身の回りの世話係でもあった。その下級生の中に元総理の池田勇人氏がいて、私の蒲団のあげおろしをしてくれていたのもなつかしい。

大蔵省から政界に進んだ池田さんと私の友情は、なくなられるまで続いた。英国のヒューム副首相が来日したとき、「50年前、頭のよい日本の青年がやってきて、1本の万年筆とノートで、英国のドル箱のウイスキーづくりの秘密を盗んでいった」と池田さんに言った話は一時有名になった。

IMF総会の時、「こんな国際的なパーティで、スコッチは1本も使うな」と命令し、国産ウイスキーを指定したのも池田さんだった。

ウイスキーのつくりかた

まず大麦に水分を与える。大麦は水を吸うとまるまると太り、芽と根を出してみずみずしい精気をあたりいっぱいに発散させる。約1週間で発芽をとめ、乾燥塔内でピート(草炭)の煙にいぶされる。ピートの煙は床に刻まれた細いすきまを通り、麦の一粒一粒のシンのそこにまで移り香をしみこませる。

麦はピートの移り香を吸い、ウイスキー独特の香りを早くもここで身につける。ピートで十分に乾燥した麦を粉にし、湯水を加えて撹拌すると、ジアスターゼの作用によって、デンプンが麦芽糖という糖分に変身する。これを濾過し、冷やして酵母に入れると、醗酵によって甘い麦芽糖が辛いアルコールになる。

これを昔ながらの素朴で、優雅な形をした単式蒸留機で繰り返し蒸留すると無色で透明な原液になる。これを樽に詰めて貯蔵すると、その間にコクと色を増し、ウイスキーの原酒となる。

ニッカウイスキ

ウイスキーの歴史

ウイスキーは遠い昔からあった酒ではない。今のウイスキーのように琥珀色をしたピートのこげくさい香りのついた酒となったのは300年前とか、400年前とかいわれている。酒の中では比較的に新しい。その頃のウイスキーはモルトウイスキーと呼ばれ、ハイランド地方で単式蒸留機を使って蒸留した原酒を、樽に入れて塾生させてつくったものである。香りや味はよかったが、重くて飲み飽きるきらいがあり、万人向けではなかった。

1826年になって連続蒸留機が発明され、グレンウイスキーの工場が1820年~1860年までローランド地方にたくさんできた。1860年にグレンウイスキーとハイランドのモルトをブレンドしてみたら、これまでにない飲みよいウイスキーとなった。

ブレンディッドウイスキーができてウイスキーは飲みやすくなり、全イギリスの人や、世界の人びとの間にウイスキーが愛好されるようになった。今我々が飲んでいるブレンディッドウイスキーは、まだ150年の歴史しかない。

禁酒法の背景

もともとアメリカの酒造業はドイツ系の市民が多かった。そのため第一次大戦中のドイツへの反感がそのまま酒造業者への圧迫となって現れたといわれている。そして酒の原料に穀物をつぶすのはけしからんという、農産物節約の趣旨にうながされて議会を通過したのが禁酒法である。



サントリーへの入社経緯

現大阪大学の醸造科を出て摂津酒造へ入社、日本初の本格スコッチウイスキーをつくるべくイギリスに留学。帰社後は会社の景気が悪くなって、資金難から役員会でウイスキーづくりは棚上げされた。ウイスキーをつくらないのに高禄(月給150円)は社長に申し訳なく退社。夫婦で学校の先生をしていた。その時業績のよかった現サントリーの鳥井氏が1923年に入社を誘った。

リタとマッサン

鳥井氏とは元々知り合いで、留学時は神戸港まで見送りにまで来てもらった仲。鳥井氏いわく「赤玉ポートワインが順調に売れているので、どうしても本格ウイスキーをやってみたい。三井物産に話してスコットランドから技師を連れてくるつもりであったが、向こうから逆に”日本にいい技師がいる、しかも日本人だ”といわれて君の所に飛んできた。」三井物産のイギリス支店は、ムーア博士を第一候補に交渉を進めたが、ムーア博士から竹鶴氏の話が出た。鳥井氏は三顧の礼の言葉通り、家を三度訪問してきた。

工場を建てる場所は、北海道が一番適しているとすすめたが、「工場を皆さんに見てもらえないような商品は、これから大きくなりまへん。大阪から近いところにどうしても建てたいのや」といってきかれなかった。

入社条件として、ウイスキーづくりを全部まかせる、必要なカネは用意する、10年間働く、年棒は4000円とした。年棒の4000円は、スコットランドから技師を呼ぶ場合の見込み金額を、そのまま竹鶴氏に当てはめた。

その後工場の場所(山崎)の選定、工場の設計、日本初の設備の製造まで、すべて竹鶴氏が陣頭で進めた。他に相談しようにも、誰も日本にはいなかった。すべてが日本初の試みだった。

サントリーとの約束の10年が過ぎた後は、退社し出資者を募り、北海道の余市に工場をつくり、現ニッカを創業する。

酒税法の改定交渉

当時の酒税はできた酒に税をかける造石税制度だった。蒸留を終わって樽詰めしたものにすぐ課税されては、その後の欠減(蒸発)や、商品の売上が上がる(10年)までの資金繰りで、ウイスキー企業は成り立たない。

大蔵省の親戚の者がいて、その紹介で関税部長の星野直樹氏(後の国務大臣)と会う。イギリスの例を持ち出し、ウイスキーは造石税ではなく、庫出税にすべきだと主張した。何回も足を運び説明し、星野氏の尽力で酒税法が改正された。「ウイスキー原酒は半製品であるから庫出税とする」。当時の大蔵大臣はかの高橋是清であった。

ニッカ社名の由来

当時の社名の大日本果汁の略。独立後、ウイスキーが売れるようになるまでジュースを作ってつないでいた。

ウイスキーとは

ウイスキーの熟成を科学の力で早める試みは昔からあったが、すべて失敗している。自然と時だけがその解決者なのである。

祖父マッサンと祖母リタの思い出

祖母は家の中にあっても、化粧をし正装した状態で家族と接するのが常であった。そのため私は祖母の寝間着姿や素顔を見たことがなく、母も同じことを言っていた。長身の祖母はドレスを着ることが多く、母によれば、空の色によって目の色が違って見えることから、その日の目の色に合わせて、晴れの日はグリーン系、曇りの日はグレー系の色の服を選んでいたという。

~略

祖父にある日、「本当の贅沢とは何か?」と尋ねられ返答に窮した。すると祖父は「今、お前がいるこの環境こそが本当の贅沢なのだ」と言った。「日々、恵まれた自然の中で、様々な旬の野菜や果物(家で野菜を作っていた)の香りや色、味わいを、記憶に蓄えておきなさい。それはこの場に居るもののみが体験でき、大人になってからではできないことなのだ」と教えてくれた。

谷村新司の「昴」

スーパーニッカのCMソングの話を頂いたのは1980年。CMの仕事はそれまでやってこなかったけど、本書旧版「ウイスキーと私」を読んで、仕事というより人との出会いだなと感じ、やらせてもらった。そうして生まれたのが、自分の代表曲になっている「昴」。

とりわけ竹鶴氏やウイスキーを意識したわけではないが、あとで歌詞を見返してみると重なる部分が多い。竹鶴氏は、ウイスキーの本質を見極めるために、ひとりはるばるスコットランドまで出かける。だから「昴」にも「いつの日か誰かがこの道を」と書いた。

昴 [谷村新司 ]

いつになったら元の値段に戻るんだろう。

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