【文章読本/谷崎潤一郎/1934年初版】の要約読書メモ

「現代のいわゆるモダーン・ボーイやモダーン・ガールたちの言葉使いは、ぞんざいな点で職人にも劣ると云わなければなりません。しかもそう云う言葉使いをするのは、純粋の東京人よりも、都会人の真似をしたがる田舎出の青年に多いようでありまして、とにかく私には、あれが気の利いた感じを起させるどころか、むしろ非常に田舎臭く響くのであります」by谷崎潤一郎。

教科書で習ったモボ、モガ。いつの時代も「今の若いものは」と言われています^^

昭和9年初版。一般の読者向けに、文章の読み方書き方をわかりやすく著したエッセイ。後に川端康成や三島由紀夫など多くの作家が同じタイトルを踏襲し、それぞれの主観で書いています。

読んでびっくりしたのは、文章のリズムが自分の感覚に近かったことです。僕が模倣してるのは村上春樹のリズムですが、その源流は谷崎潤一郎だったのかと気づきました。そういえば「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は85年に谷崎潤一郎賞を受賞しています。遠藤周作、大江健三郎、丹羽文雄、吉之淳之介が反対する中、一人推した丸谷才一は先見の明ありか。

読んでみると、とにかく賢い。当時の小説家、夏目漱石や森鴎外も東大ですが、谷崎潤一郎も東大です。(当時は小説家も東大生も今より賢い)古文、漢文、英語に深く通じ、博識であり、文章を職人が読んでも理解できるように分かりやすく書く。もう参りました、としか言いようがない。

いまは文書の推敲は簡単です。ワープロなので何度も削ったり言葉を入れ替えできる。調べモノも一瞬でグーグルが答えてくれます。誰でも何か書こうと思えば、ネットを調べながら簡単に書ける。思うのですが、ネットもなく、ワープロもない時代はどうやってモノを書いたのでしょうか。百科事典や、膨大な本棚を漁りながら、原稿用紙に上書きしていたのでしょう。途方もない労力です。記憶力も重要です。今なら検索ができれば誰でも瞬時に調べれる。そういう意味では昔の文人は、尊敬に値する職だと思います。



目次は以下
1.文章とは何か
○言語と文章
○実用的な文章と芸術的な文章
○現代文と古典分
○西洋の文章と日本の文章

2.文章の上達法
○文法に囚われないこと
○感覚を研くこと

3.文章の要素
○文章の要素に6つあること(用語、調子、文体、体裁、品格、含蓄)
○用語について(分かりやすい語を選ぶこと、職人の技術語を参考とせよ)
○調子について(その人の天性に依る。調子は精神の流動であり、血管のリズムである)
○文体について(講義体、兵語体、口上体、会話体)
○体裁について(視覚的要素一切のこと。振り仮名、送り仮名の問題。漢字と仮名のあて方。句読点)
○品格について(饒舌を慎むこと。品格ある文章を作るには精神的修養が第一)
○含蓄について(この読本は終始一貫含蓄の一事を説く。含蓄とは「饒舌を慎むこと」その効果を論ずる)

以下に読書メモを。

音楽的効果と視覚的効果

眼や耳からくる感覚的な快さが、いかに理解を助けるものであるかと云うことは、名文家は皆よく知っている。既に言葉と云うものが不完全なものである以上、われわれは読者の眼と耳とに訴える、あらゆる要素を利用して、表現の不足を補って差支えない。

多量の漢字の濫用

現代人は多量の漢字を濫用しすぎる。明治になって和製の漢語が増加した結果だ。文章の音楽的効果、つまり文章は眼だけでなく耳で理解するものでもあるのに、語呂とか音調に頓着せず無数に漢字を積み上げる。われわれは見ると同時に聴いて理解する。眼と耳が共同して物を読むのだ。あまり沢山の漢字を一遍に並べられると、眼は耳の速力に追いつけなくなり、字形と音(おん)とが別々になって頭へ這入る。内容を理解するのに手間がかかる。文章を綴る場合、その文句を実際に声を出して暗誦し、それがすらすら云えるか試すことが必要。

国語の欠点

言葉の数が少ない。コマや水車が転がるのも、地球が太陽の周囲を廻るのも、等しく「まわる」もしくは「めぐる」。前者は物それ自身が「まわる」のであり、後者は一物が他物の周りを「まわる」。両者はあきらかに違っているが日本語にはこう云う区別がない。が、英語は勿論、支那語でも立派に区別している。支那で日本語の「まわる」「めぐる」に当たる語を求めれば、転、旋、還、巡、周、運、回、循・・実にその数が多い。



文章のよしあし

文章のよしあしは「曰く言い難し」。読者自身が感覚を以って感じ分けるより外に、他から教えようはない。仮りに私が、名文とはいかなるものぞの質問に強いて答えるとしたら、
・長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの
・何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るもの
ただしこれも、その印象や滋味を感得する感覚を持っていない人には、さっぱり名文の正体が明らかにならない。

文章の上達法

・出来るだけ多くのものを、繰り返して読むこと
・実際に自分で作ってみること
文章の味は芸の味、食物の味と同じで、それを鑑賞するには学問や理論は助けにならない。それを味わうには感覚に依るところが多大。それは生まれつき鋭い人と鈍い人がいる。鈍くても多くは心がけと修養次第で、生まれつき鈍い感覚を鋭く研くことが出来る。

総て感覚は、何度も繰り返して感じるうちに鋭敏になる。三味線の調弦では、生来聴覚の鋭い人は、教わらずとも出来るが、大抵の初心者は出来ない。習い始めは師匠に調子を合わせてもらう。1年ぐらいたつと自分で調子を合わすことができるようになる。師匠も弟子が自然と会得する時期が来るまでは黙って調子を合わせてやるだけで、理論めいたことは云わない。云っても何の役にも立たず、却って邪魔になる。文書に対する感覚を研くには、昔の寺子屋式の教授法が最も適している。

和文脈と漢文脈

わが国の古典文学のうちでは、源氏物語が最も代表的であるが故に、国語の長所を剰すところなく発揚していると同時に、その短所をも数多く備えている。男性的な、テキパキした、韻(ひびき)のよい漢文の口調を愛する人には、あの文章が何となく歯切れの悪い、だらだらしたもののように思われ、何事もはっきりと云わず、ぼんやりぼかしたあるような表現方法が、物足らなく感ぜられる。

同じ酒好きな仲間でも、甘口を好むものと、辛口を好むものとがある、さように文章道においても、和文脈を好む人と、漢文脈を好む人とに大別される、即ちそこが源氏物語の評価の別れる所であると。

森鴎外は「私は源氏の文章を読む毎に、常に幾分の困難を覚える。少なくともあの文章は、私の頭にはすらすらと這入りにくい。あれが果たして名文であろうか」

枕草子は批評が一定し、悪口を云う者はいないが、源氏のほうは、内容も文章も見るに足らない、支離滅裂だ、睡気を催す書、など露骨な悪評を下すものが昔から今に絶えない。

推敲

推敲すると云いますのは、その大半が単語の選択に費やされる苦心を指すのでありまして、私なども、何十年来この道に携っておりながら、未だに取捨に迷うことが多く、若い時と同じ辛労を覚えるのであります。(分かり易い、使い慣れた言葉を選ぶこと)

彼女がなりたいのはモダンガール♪
それは独立した女性♪

シーナイーストンでモダンガール♪

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