メジャーな本なので高校のころに読みました。その時は何も得られなかった。「ふ~ん」で終わり。ストーリーも覚えてない。物語が引っかかるフィルターが自分の中にまだなかった。
高校のころ読んだものはよく記憶に残るはずなのですが、ぜんぜんです。そういえば五木寛之があとがきに書いてる「風と共に去りぬ」も同じころ読んだのですが、ストーリーが思い出せない。記憶に刻まれないレベルのフィクションというより、自分がプアだったのだと思う。
で今回はジョナサン完成版です。3章立てを4章立てに追記してる。これどうなんでしょうか。スラムダンクはあそこで終わったからよかった。名作として一度完結したものは、続編ないほうが美しいかも。
わずか1時間で読める本です。本編157p-かもめの写真67p-本編開始19pで、だいたい70pぐらいしかない短編です。一読して思い浮かんだのはニーチェのアンチキリスト、禅の十牛図、源氏物語の宇治十帖 です。
ニーチェの観点で
ニーチェのアンチキリストは要約すると、以下のような内容です。(過去記事からのコピー)
『イエスというのは、きわめてインド的でない場所に現れたブッダである。彼自身は、ユダヤ教支配者層に反抗した政治犯であり、弱小教団の教祖で、有名な「他人の罪のために死んだ」のではなく、自分の犯した罪により死んだ。
イエスの原像は、
・すべての嫌悪や敵対や感情の限界を本能的に排除する
・福音とはいかなる対立も無いということ
・天国は死後にやってくる何かではなく、今ここで実現される心の状態求めてるところは、きわめて小乗仏教である。
しかしイエスは白痴であった。最後の最後に自分のやってることの無力さに気づき、神よ私を見捨てるのかと嘆きながら死んでいく。
ここでイエスの教えと反対の方向にいくのが、弱小教団のパウロである。神の裁きによる復讐を考えるのである。あるがままを受け入れ、心の平穏を求めるのがイエスの教えであるのに。
天国や神やありもしないものを捏造して、イエスの本当の教えの、現在の心のありよう、精神の平穏が天国であるというものから逸脱していく。
信仰により、未来の楽園を約束するという空手形で、おもに弱者や現世がうまくいってない人々の支持を集める。
現世利益や権力の追求など、人として当たり前のポジティブな考え方が貶められていく。この世は弱肉強食であり、努力が必要であるが、なにもしない弱者が崇高であるような幻想をつくりあげる。
およそイエス教からかけ離れた、パウロと弱小教団幹部でつくり上げた宗教が、キリスト(=救世主)教である。
ニーチェは、宗教家が自分の利益のために都合よく教えを捻じ曲げるという構図を、徹底的に批判している。彼の理想とする世界は、道徳や真理などを個人個人が考える、宗教に頼らない世界である。』
かもめのジョナサンはブッダです。いわゆる小乗仏教的で釈迦本来の教えを具現化してます。悟りを得るには自らが空海のように厳しい修行をしないといけない。
そんなことは一般人はできないし、それができないと救われないというのはつらい、ということで仏教は大乗仏教に変化します。大乗仏教はキリスト教のあかん部分を取り込んでる。ナミアミダブツと唱えれば誰でも天国へ行ける。虚構ですよね。
それは本来の釈迦の教えじゃない。厳しい修行を自ら行ったものが人生の悟りを開ける。キリスト教も同じです。イエスは釈迦と同じことを言ったけど、パウロ(一説にはサイコパスと言われてる)に捻じ曲げられ、金満権力者となった教団に捻じ曲げられていく。彼らの利益のために。
そこをニーチェは思いっきり批判してるし、司馬さんも講演なんかで、釈迦の本来の教えは小乗仏教であると何度も言ってます。
結局著者は、司馬遼太郎やニーチェと同じことを童話で言ってるだけです。
禅の観点で
本書のモチーフでより具体的なのは、禅の十牛図でしょうね。wikiより拝借。
①尋牛(じんぎゅう) – 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
②見跡(けんせき) – 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
③見牛(けんぎゅう) – 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
④得牛(とくぎゅう) – 力尽くで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、
いまだ自分のものになっていない姿。
⑤牧牛(ぼくぎゅう) – 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
⑥騎牛帰家(きぎゅうきか) – 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) – 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
⑧人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) – すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
⑨返本還源(へんぽんげんげん) – 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ) – まちへ..悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
かもめのジョナサンのストーリー展開は、十牛図の①から⑥まで進んで、⑦~⑨を省いて⑩に至ってます。
著者はニーチェのアンチキリストをベースにし、十牛図のストーリー展開を拝借して、戦闘機乗りだった自分と重ね合わせて、飛ぶことを追及するかもめの話を書いた。
「述べられたすべてのことは、誰かによって述べられている」
「アイデアとは既存の要素の組み合わせ」
よく言われることですが、本書は地でいってます。
源氏物語の観点で
続編って難しいですよね。とくに主人公がいなくなった後。もっともうまくいったのは世界最古の小説と言われる「源氏物語」だと思う。光源氏が没したあと、宇治十帖では薫を主人公として物語は進みます。
源氏物語の場合は、めちゃくちゃ面白い(瀬戸内寂聴訳がいい)。続編を誰もが読みたい。あの世界に永遠に浸っていたいというニーズがある。
かもめのジョナサン旧版は、ジョナサンが没した後に、弟子のフレッチャーが修行の先生となるところで終わってました。ちょうど十牛図が2回転したような状況です。これはこれで名作として完結してた。
完成版で追加された第4章で描かれるのは、アフター十牛図です。その後ジョナサンは神格化され、ジョナサン教ができます。「聖なる御名の偉大なジョナサン師はおっしゃった。飛行とは・・・」
教理は呪文になり、誰も厳しい飛行訓練(修行)をしなくなった。それはおかしいと、若いかもめが再び飛ぶことを追及し始めると、そこにジョナサンが現れます。そこで終わり。
4章の意義は何か。
釈迦は庶民にわかりやすい口語で語り継ぐこと、葬式の禁止、輪廻の否定をしています。キリスト教はパウロのこじつけで、ありえないファンタジーになっている。そいうことをかもめ達が行い、そこを批判している。そして自分でやること、修行することが大切だと若いかもめが気づきます。小乗仏教や原始キリスト教への回帰です。
宗教批判は3章までにも読み取れますが、それをより強調したと言えます。そして最後には、再び十牛図が回転を始める。
新展開はなかった。そこに意味はなく、ただ著者は書きたかったのだと思う。ジョナサンがただ飛びたかったように。
ジョナサン 音速の壁に♪
ジョナサン きりもみする♪
ほんとそうだよな どうでもいいよな♪
ほんとそうだよな どうなってもいいよな♪
ハイロウズで14歳♪