「1970年代の日本の音楽史」について。ニューミュージック、日本語ロック新世代の台頭など、著者のまとめが秀逸だったので本記事下部にメモを残しました。
それではまず本書の感想から。80年代に青春を送られた方にはオススメな本です。著者は「FMステーション」の編集長だった人。
FM雑誌の全盛期。FM四誌で150万部も売れてたそうです。最後発の「FMステーション」は50万部と一番売れた。ぼくも買ってました。鈴木英人の表紙がカッコよかった。
本書読んで初めて気づきましたが、これって80年代固有の現象で、他の世代への普遍性はないみたいです。わずか10年ぐらいの文化。日本の音楽鑑賞文化って、いま振り返ると10年前後で新技術に変化していってます。
60年代はモノラルが多くて、後半ぐらいからようやくステレオが流行る。とはいってもオーディオは金持ちの道楽というか、数十万円もして応接に鎮座するもの。
ざっくりみると60年代後半から79年までが、高価なオーディオ&レコードの時代。ラジカセはモノラルが中心。テレビの前にラジカセ置いて配線無しで録音してた。10年強続いた。ちなみに70年代日本で一番レコードを売ったのは山口百恵でした。シングルは31作の累計で1630万枚、LPは45作の累計で434万枚。合計2060万枚を超えた。2位はだいぶ差がありますが、ピンクレディーの約1330万枚です。
79年にウォークマンが売れて、サンヨーのステレオラジカセ「U4」が600万台も売れて。音楽用カセットテープが急速に普及。これですね↓
80年には東京で「貸しレコード屋」が始まってすぐに全国でも開業される。ミュージシャンのアルバムをFMでエアチェックするか、貸しレコード屋でレンタルするか(1枚250円ぐらいだった)、電器屋でLPを購入するか。そんな10年が続きます。
だけどこれも80年代後半にはCDにとってかわられる。90年代はCD&ミニディスクの時代。これも10年しか続かない。
2000年代からはアイポッドで音源を持ち運ぶ時代になる。レンタルCDやダウンロードした音源を聴く文化は15年ほど続く。
そして2015年前後からついにサブスク。これで音楽はほぼ無料になりました。
誰がFM雑誌を終わらせたのか?
「じつはオンエア曲目を全番組、いっさい発表したくないのです」
J-WAVEの広報担当、Tさんがそう口を開いた。「そうきたか」とぼくは思った。ほかのFM三誌の編集長各氏も、複雑な表情を浮かべた。10月に開局をひかえたJ-WAVEをFM四誌で訪ねたときのことである。
開局間近のJ-WAVEに番組宣伝資料と曲目表の提供を、四誌そろって正式に依頼に出かけたのだった。
それまでのFM局は、事前に曲目表を1カ月ほど前にFM誌に渡しているので、ライブな放送ができなかった。雨の日に雨の曲をかけたり、その日のニュースに合わせた選曲ができない。というジレンマがあった。それを新しいFM局J-WAVEは変えてきたのだ。
「モアミュージック、レストーク」路線で、J-WAVEは大ブームになった。バイリンガルDJが曲を流して、アイドルや演歌などのダサい曲はかけない。邦楽でもかっこいい最先端のポップスはオンエアする。それをJ-WAVEでは「J-ポップ」と呼んでほかの邦楽と区別した。いまでは一般的になった「J-ポップ」という言葉は、この時(80年代後半)に生まれている。
「週刊FM」が真っ先に休刊。1991年だった。同じ年に「FMレコパル」から「FM」の二文字が消えて「レコパル」と誌名が変わった。その後95年に休刊。
「FMステーション」が休刊したのは1998年3月。最後まで残っていた「FMfan」も2001年に休刊した。
1970年代の日本の音楽史
七一年の中津川フォークジャンボリーで、二時間にわたって延々と「人間なんてラーラーララララ 」とだけ歌い続け、 岡林信康に替わってフォーク・ヒーローとなった吉田拓郎は、メッセージ・ソングに別れを告げて、翌年「結婚しようよ」「旅の宿」とポップなヒット曲を続けざまに放ち、フォークの枠を超えた人気者となった。さらに南こうせつとかぐや姫の「神田川」「赤ちょうちん」「妹」 は、すべて映画化されるほどの大ヒットとなった。
これらかぐや姫の一連の曲は叙情派フォーク” と呼ばれたが、なんたって二十歳そこそこで「若かったあの頃……」 だもの。もはや”闘争の時代’’は終わり、いまさら’’体制側’’に寝返るのもかっこわるいし、 昔をなつかしみながら、社会のかたすみでひっそりと生きていこうといったところか。 同時期にヒットした演歌’’貧しさ’’と’’世間’’に負けたさくらと一郎の「昭和枯れすすき」まであと少しの世界である。
七五年にヒットしたバンバンの「いちご白書をもう一度」(荒井由実作詞作曲)の主人公は、就職が決まって長髪を切り、彼女に「もう若くはないさ」と言いわけしてしまう。彼も、映画「いちご白書」をいつか一緒に見た彼女と二人だけのメモリーの中に生きている。こうして若者たちは思い出 を胸に社会復帰していったのです。
さらに、日本初のミリオンセラー・アルバムとなった「氷の世界」 (七三年) で大きな支持を得た井上陽水にいたっては、若者の自殺やわが国の将来の問題などには興味さえ示さず、それより雨なのに傘がないほうが問題だと、自己の内面に引きこもってしまう。
ウディ・ガスリーは、カリフォルニアからニューヨークまで、この国はぼくらのもの(「我が相国」)と歌い、ジョーン・バエズが日本公演で「北海道から沖縄まで」に歌詞を変えて歌っていたように、かつてのフォークは全国の同志に呼びかけていたものだが、時代は変わり、いまや自分の身のまわりにしか関心がなくなったのである。 北海道から沖縄までの空間を、三畳ひと間の小さな下宿に縮小したかぐや姫の歌が’’四畳半フォーク” と揶揄されたのも無理からぬことではあった。
その命名者であるとされる荒井由実は、「貧乏くさいのはいや。私はもともとプチブルよ」と宣言し、自ら「中産階級サウンド」と呼んだポップでファッショナブルなサウンドとともに七三年、「ひこうき雲』でアルバムデビュー。 七五年の「コバルト・アワー」でユーミン・スタイルを確立した。 彼女の登場でフォークは死語となり、替わって「ニュー・ミュージック」という言葉が生まれた。
同じ七五年には、山下達郎と大貫妙子が在籍したシュガーベイブが、大瀧詠一の設立したナイアガラ・ レーベルからアルバム「SONGS」をリリース。 中島みゆきが「アザミ嬢のララバイ」でデビューした。独自の感覚を持った多種多様な新世代のポップスが生まれつつあった。
芸能界も、こうしたフォーク、ニューミュージックの人気に目をつけた。 演歌の森進一が七四年に拓郎の「襟裳岬」を、翌七五年に布施明が小椋佳の「シクラメンのかほり」をカバーして大ヒットさせ、それぞれの年のレコード大賞を受賞した。フォークが市民権を得たともいえるし、体制側に取り込まれたともいえるが、これまで商業的な芸能界と一線を画していたフォーク、ニューミュージックが一大勢力となったこと、ニューミュージックと歌謡曲のフュージョンが始まったことだ。
それをはっきり示したのが、拓郎、陽水、泉谷しげる、小室等というフォークのトップスター四人によるフォーライフ・レコードの設立である。こうして拓郎をはじめニューミュージック系アーテイストが歌謡曲、とくにアイドルの曲まで手がけるようになった。かつては芸能界にかかわると、いやテレビに出演しただけで「商業主義」とののしられたフォークが、ビッグ・ビジネスの世界に参入したのである。
岡林信康のバックをつとめていたはっぴいえんどは、渋谷のBYGというライブハウスを拠点に、日本語によるロックを追求していたが、岡林的なフォークの枠から出られずに苦しんでいるように思えた。 メッセージ性を帯びた歌詞が、どうしても字あまりになってロックのリズムに溶け込まないきらいがあった。メンバーがそれぞれの能力を存分に発揮し始めたのは解散後のことだ。大瀧詠一は 「ロング・バケーション」のポップな”ナイアガラ・サウンド” で、 細野晴臣はYMOのテクノ・サウンドで時代の最先端をゆき、ドラマーの松本隆は「木綿のハンカチーフ」でアイドル歌謡の作詞家としてゆるぎない地位を築いた。
松本は、自分の書いた「木綿のハンカチーフ」の詞に、筒美京平がスラスラと流れるようなメロデ をつけたことに驚き、以来、それまで見下していた歌謡曲の作詞に本気で取り組むようになったといわれる。
付け加えておくと、はっぴいえんどが必ずしも成功したとはいえない日本語ロックに一つの答えを出したのがキャロルとダウン・タウン・ブギウギ・バンド (DTBWB)、サザンオールスターズだった。メッセージ性(広く’’意味”といってもいいが)を帯びた詞をビートにのせるのではなく、ビートにのる詞だけを、ときには脈絡なくつなぎあわせるやり方を、彼らは選んだ。 字あまりの部分には適当な英語 オーイェーとかベイビーとか単純な言葉を入れる。
キャロルはロックの歌詞に意味などいらない、と居直ることによって、徹底した思想性のなさで成功した。 DTBWBは”演歌ロック”と自称し、アメリカ占領時代を思わせる歌詞、演歌風のメロディもあえて取り入れて独自のスタイルを打ち出した。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」はメロデイがつけにくかったので、サビ以外はすべて台詞にしてしまったが、それが大ヒットした。サザン は、断片的なフレーズをつないでいき、歌詞トータルでなんらかの思いを伝えようとした。ぼくは深夜の江ノ電に乗っていて江ノ島が見えてきたとき、「勝手にシンドバッド」の歌詞を思い出して、歌の内容がわからないまま泣けてきたことがある。
新世代のポップスの特徴は、日本のミュージシャンのテクニックやレコーディング技術が飛躍的に向上し、サウンドがどんどん洗練されていったことにある。それは結局はセンスの問題であって、旧世代とは異なる現代的な鋭い感覚を持ったミュージシャンが続々登場したということでもある。たとえば加藤和彦率いるサディスティック・ミカ・バンドがイギリスの音楽界に影響を与え、YMOがアメリカで人気を博したのも、単なるエキゾチシズムだけではなかったと思う。 YMOはむしろエキゾチシズムを逆手にとっていた。
アメリカ・イギリスの真似をするだけだった日本のポップスも、新世代のニューミュージック系 アーティストによって、独自のものに変わりつつあった。
しかも、ニューミュージックと歌謡曲の”フュージョン” は、歌謡界全体におよんだ。阿木燿子・宇崎竜童のDTBWBの作詞・作曲家チームや、さだまさし、 谷村新司が楽曲を提供した山口百恵や、拓郎が曲を書いたキャンディーズなど、アイドルのヒット曲も質的にあなどれないものになった。ピンク・レディーの大ブームも起こったし、七〇年代後半は日本の歌謡界のほうが、むしろ洋楽よりもぼくにはエキサイティングだった。
サウンドの質的向上をはじめとする、こうしたポップス界、歌謡界の流れは、FM放送にも影響したと思う。 若者の音楽も、クオリティ重視のFMで放送するに耐えうるものとなった。 七〇年代におけるハード、ソフト両方の急激な変化によって、必然的にFMというメディアと若者とが結びついた のである。
そして一九八〇年、レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムがこの世を去り、ジョン・レノンが 射殺された。こうして新たな十年が始まる。
そういえば一時期、サンヨーのラジカセを使ってたことがあります。「U4」じゃないですが。80年代前半です。探してみると動画ありました。懐かしいな。
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