落ち込んだ時、治癒法は?|「ある作家の夕刻-フィッツジェラルド後期作品集-村上春樹翻訳」より

眠れない夜ってあるじゃないですか。

解決できない、どうしようもないツライことがあったりして。

とくに夜中の3~4時ごろにトイレで起きる。そのあと寝ようとすると、悩みが針小棒大になってるんですよ。なんでしょうねあれは。

しようもないときは、阪神タイガースの敗戦でクヨクヨしたりする。ある種のウツ状態なのか。おなじような悩みは、スコット・フィッツジェラルドが「エスクァイア」1936年3月号に書いていました。読書メモで後述します。



今年の村上春樹は翻訳本が話題です。19年5月、6月と連続出版。いま手元に2冊あります。

「ある作家の夕刻」は、10年前から楽しみにしていました。「冬の夢」というフィッツジェラルド若き日の名作集を、村上春樹翻訳で2009年に出版。そこに「晩年の名作集」を今後出す予定と書かれていたので。

フィッツジェラルドの人生を以下に。

・裕福な家庭でうまれる
・プリンストン大学
・陸軍(内地勤務で除隊)
・広告代理店入社
・アラバマ・ジョージアの2州に並ぶ者無き美女ゼルダと婚約
・婚約破棄(金持ちじゃないと嫌という理由)
・退社し、実家で小説家を目指す
・流行作家になる
・ゼルダと結婚
・ゼルダは奔放に遊びまわる。パーティ漬けの毎日
・娘が生まれる
・ゼルダが統合失調症発祥
・作者もアルコール依存
・44歳でアパートで心臓麻痺で死亡
・ゼルダは入所していた療養施設の火災で死亡

フィッツジェラルドは、若き日は洒落た恋愛小説を書いてますが、後半生は苦悩の日々で、それを反映した作品群になります。

ちなみに村上春樹は生涯で70冊の翻訳をしていますが、フィッツジェラルドの翻訳はこれで6冊目。小説家でこれほど多くの翻訳をしてるのは、森鴎外か村上春樹くらいです。働き者だ。

村上春樹の翻訳全仕事をまとめた本があって、数えてみたら以下の作家を翻訳してました。合計したら数が合わんけど、そこはご容赦を。

作品として多いのはフィッツジェラルド、カポーティ、カーヴァー、チャンドラーです。

レイモンド・カーヴァー17冊
レイモンド・チャンドラー6冊
スコット・フィッツジェラルド5冊
トマス・カポーティ5冊
クリス・ヴァン・オールズバーグ(絵本)12冊
ティム・オブライエン3冊
アーシュラ・グィン4冊
グレイス・ペイリー2冊
JDサリンジャー2冊
ビル・クロウ2冊
アンソロジー(寄せ集め)6冊
その他12冊

以下に読書メモを。



落胆した人間の標準的な治癒法

落胆した人間の標準的な治癒法は、現実に困窮している人たちや、身体的な苦しみを抱える人たちについて考えることだ。これはいかなるときにも憂鬱一般に対する至福となるし、昼間のうちなら、万人へのかなり有益な助言となるだろう。

しかし夜更けの三時には、一個の忘れられた小包が死の宣告に負けぬ悲劇的な重みをもつ。そこでは治癒法など無益だ。そして魂の漆黒の暗闇にあっては、来る日も来る日も時刻は常に午前三時なのだ。

その時刻には、幼児的な夢に逃げ込むことで状況に直面することを極力回避しようとする傾向が生まれる。しかし人は世界との様々な接触によって、ことあるごとにこの夢からはっと目覚めさせられる。

このような事態に直面した人はできるだけ知らん顔をしてさっさと、再びその夢の中に引きさがろうとする。何か立派な素材が出てきて、あるいは霊的次元の幸福が訪れて、ものごとが自然に解決されていくことを望みつつ。しかし逃避を続ければ続けるほど、たなぼたの機会は減っていく。

人はいまや、ひとつの悲しみが薄れて消えていくのを待っているのではなく、ひとつの処刑の、自らの人格の解体の、いやいやながらの立会人となっているのだ…。

狂気か薬物か酒が入り込まない限り、このままでは人はやがて袋小路にはまり込んでしまう。そのあとに訪れるのは空虚な静寂であり、そこでできるのは、何が刈り取られてしまい、何が残されているのかを見定めることくらいだ。

⇒午前三時は、やっぱりみんな「どうしよう~」って悩むんですね。しょーもないことで。自分だけじゃなかった。じゃあフッツジェラルドは午前三時にどんなことを悩んでいたのか?家族の問題は別として、その他のことは以下でした。テクノロジーの進化で仕事が奪われること。

私の努力を時代遅れにしていくもの

小説が ― 私が大人になった時期においては、一人の人間から別の人間にその考えや感情を伝えるための、もっとも強力で柔軟な手段であったものが ― メカニカルで共同的な芸術の下位に回されていくのを私は目にした。

それらの芸術は、ハリウッド商人の手に委ねられるにせよ、ロシアの理想主義者の手に委ねられるにせよ、どこまでもありふれた思考や、見え透いた感情しか反映できない代物だった。

そのような芸術においては、言葉は映像の下位におかれ、人の個性は共同作業の低速ギアへと避けがたく呑み込まれていく。

今をさかのぼる1930年に私は、トーキー映画の誕生は最も売れっ子の作家さえをも、サイレント映画と同じくらい古色蒼然としたものにしてしまうだろうという予感を抱いた。

人々は今でもなお本を読み続けているが、置かれた言葉の力が他の力の、よりきらびやかでより野卑な力の下位に置かれるのを目にするのは、まことに腹立たしく屈辱的なことであり、その屈辱は私にとってほとんど強迫観念に近いものとなった…。

それは私が承服できぬものであり、私には闘いようのないものでもあり、また私の努力を時代遅れにしていくものである。大きなチェーン店が零細な小売商を潰していくのと同じように、打ち倒すことのできないひとつの外部の力が。

⇒1936年2月号、3月号、4月号のフィッツジェラルドのエッセイ、「壊れる」「貼り合わせる」「取り扱い注意」は、村上春樹が大好きで、昔から何度も読み返してきた話だそうです。

自分で翻訳したかったけど、もっと年齢を重ねてからのほうがいいと、手を出さずに大事に取ってきた。

村上春樹が長いエッセイを書くときは、いつも「壊れる三部作」と「私の失われた都市」を頭に思い浮かべるようにしてるとのこと。

ちなみにヘミングウェイはこのエッセイを「女々しい」と罵ったそうです。

若くして名をなす人

早すぎた成功は、意志の力の対極にあるものとして、運命というほとんど神秘的な観念を人に賦与する。そして最悪の場合、それはナポレオン妄想となる。

若くして名をなす人は、自分の星が眩しく輝いているからこそ意思を行使できるのだと信じている。三十歳でやっと頭角を現した人は、意志の力と運命とがそれぞれどのような寄与をおこなっているのかを、バランスよく把握している。四十歳でそこに達した人は意志のみを強調しがちだ。

嵐があなたの船を直撃したときにそのへんのことが明らかになる。

あまりに早く訪れた成功に与えられる報酬は、人生とはロマンティックなものだという信念だ。最も良い意味で、それによって人は若さを保つことができる。愛と金銭という主要な対象が当たり前になってしまい、不確実な名声がその魅力を失ったとき、私は永遠に続く「海辺のカーニヴァル」を探し求めて、かなりの年月を無駄にした。

アマゾンプライムビデオ。アマゾンオリジナルです。ゼルダとフィッツジェラルドの物語。ゼルダはジャズエイジ、最初のフラッパー。

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『落ち込んだ時、治癒法は?|「ある作家の夕刻-フィッツジェラルド後期作品集-村上春樹翻訳」より』へのコメント

  1. 名前:サンフランシスコ人 投稿日:2019/08/21(水) 02:47:46 ID:8b8f77f40

    標準的ではない治癒法….『男はつらいよ』(渥美清主演)の映画観賞?

  2. 名前:don 投稿日:2019/08/21(水) 12:32:11 ID:12ba7964a

    サンフランシスコ人さん、こんにちは~
    「男はつらいよ」面白いですよね。とくにゴクミと吉岡が出てくる後半が好きでした。
    「釣りバカ日誌」も好きですが。