松田聖子は、ふつうにいけばデビューできなかったようです。
この本読むまでまったく知らなかったのですが。
なぜか? 父親が芸能界に反対して、オーディションを辞退させたから。
蒲池法子は「CBSソニー」と集英社「セブンティーン」の共同主催コンテストに出ます。1978年4月7日、16才になったばかり。応募総数は5万人以上と一大イベントです。
彼女はこの九州大会で優勝。その後、東京での決勝大会。これを辞退します。学校は芸能活動は一切禁止。それと国家公務員の父親の大反対です。両親には内緒でオーディションに応募していた。
学校はミッション系で厳しかったようです。それと松田聖子は良家の子女だった。wikiによると「柳川城の城主だった蒲池氏、第16代蒲池宗雪の三男・蒲池統安の子孫であり、江戸時代には柳河藩12万石(立花家)の家老格だった旧家」だそうです。
親戚も医者とか大学とか、かたい家系だった。
アイドルを夢見る蒲池法子は決勝大会を辞退。ふつうならここで埋もれて終わりです。
ここで強い運気が働きます。CBSソニーのプロデューサー、若松宗雄が彼女のデモテープをたまたま聞いたことです。
若松宗雄は入社以来の営業部から制作部門に1976年に異動。当時のCBSソニーの制作部門はクラシック1部、歌謡ポップス2部、ニューミュージック3部、洋楽4部、学芸5部。
稼ぎ頭の制作2部に異動したけど、そこは「ソニーの天皇」と呼ばれたプロデューサー酒井正利が待つ世界。直属の部下、課長として抜擢されたけどヒットに恵まれない。酒井氏からは深夜の1時頃に延々と小言の電話がある。
1977年秋、若松氏は精神的に追い込まれて、会社を辞める気で「1人で仕事をやらせてくれ」と上層部に直談判。
急転直下1978年1月の人事。なぜか若松氏がリーダーとなる「企画制作6部」が新設される。当時アイドルの売上が伸びていて、音楽制作に詳しい人だけでなく、ファンの気持ちがしっかり理解できる新しいタイプのプロデューサーを誕生させよう、とソニーの首脳陣は考えていたそうです。
背水の陣で、なんとか会社に恩返ししようと若松氏は仕事に取り組む。抜擢人事から3カ月後。1978年4月、セブンティーンとの共同オーディション決勝大会にめぼしい人材がいなかったので、スタッフに頼んで地方大会のテープをあさる。
若松氏はプロフィールも写真も見ずに、各地区大会のテープを1本1本聞いていく。声の良し悪しは聞けばすぐわかる。先入観を持たずに純粋に聴く。
何者かに突き動かされるように、200本のカセットテープを無心で次々に聞いていく。
1978年5月、その声を初めて聴く。
『すごい声を見つけてしまった』
『全身全霊にショックを受けた。福岡県に住む16歳の歌声はどこまでも清々しく、のびのびとして力強かった。明るさとしなやかさと、ある種の知性を兼ね備えた唯一無二の響き。私は元来「直感」が鋭く自分の感覚を大切にして生きているが、そのときの衝撃は今も忘れられない』
『そのとき、時空を二つに分けるように一本の線が引かれた気がする。言ってみれば、 彼女の歌声が人々の心を動かし始める前の世界と、以後の世界だった。証として私は既にそのテープを何度も繰り返し聴き始めていた。歌声の衝撃を例えるなら、真夏のスコ ールの後に曇天が消え去り、どこまでも永遠に続く南太平洋の青空が眼前に広がったかのようだった。こんなすごい子がいるんだ。声量もある。かわいさもある。存在感もある。聴いているだけで胸が高鳴り、どこか楽しい場所へと出かけてみたくなる。この日の出会いがなければ、私の人生も彼女の人生も、いまとは違うものになっていただろう』
すぐにスタッフに確認。久留米在住の高校2年生。彼女は九州大会に優勝したけど決勝大会は辞退。いったい彼女に何があったんだ?
『この子すごくいいと思うけど、直接、私が連絡してみてもいいですか?』
『いいですけど、たぶんダメですよ。父親と学校が強硬に反対していて、かなり難しいみたいだから』
この時点で若松氏は松田聖子の顔写真すら確認していない。スタッフは去り際に「かわいい子ですけどね」と。
その後若松氏は、蒲池家に直接電話する。本人が出てCBSソニーの福岡営業所で合うことにする。母親と来た蒲池法子に歌を歌ってもらう。渡辺真知子「迷い道」だ。
「この子はスターになるぞ」。何より生の声量に驚かされる。マイクはいらないじゃないか。
この話を父親に告白したのは数日後、しかも話が終わらないうちに父親は烈火のごとく怒り始め、「何を考えているんだ!芸能界など絶対に許さん!」と怒鳴り、言えば言うほど態度を硬化させていったという。高校も芸能活動は一切禁止していた。
蒲池法子と母親は父親を説得するも進展しない。もちろん若松氏も父親に直接電話し、きちんと挨拶もすませていた。しかし父親は「許すつもりは一切ありません」。ときには「君もしつこいな。ダメといったらダメなんだ」と。
あるとき「若松さん、そこまで言うなら、一度会って話したいんで福岡まで来てもらえませんか」。若松氏は父親と食事をして数時間話をする。
「お嬢さんには素晴らしい才能がある。ぜひデビューさせたいと考えています」と何度もいう。しかし「わかりました」とは言ってくれない。「わざわざ東京から来てくれてありがとう」とのねぎらいの言葉はあったが。
そのときの夕食は蒲池法子の父親がごちそうしてくれた。
ただし「若松さん、どうか今後は娘にも妻にも直接電話はしないでくれ。私が家族の責任者だ。何かあったら私を通して、勝手に娘や家内に話さないでほしい」といわれた。
その後も若松氏はあきらめない。福岡営業所長に連絡を取り、営業の強者からも父親の説得を試みる。
福岡所長からの連絡。「若松ちゃん、ダメだ。親父さんは相当に頑固だ。絶対に譲らないよ」
その頃の蒲池法子と若松氏の手紙のやり取り。
『私は絶対に歌手になりたいのです。 父は反対していますが、私の気持ちをいつか必ず理解してくれるはずです。とにかくあらゆる努力をしますので、これからも私自身の気持ちは変わりません。私にもう一度チャンスをください。 どうかよろしくお願いいたします』
『君はすごい才能を持っている。それは間違いない。だから僕は君の才能を信じて全てを賭けるつもりだ。 その代わり法子ちゃんも覚悟を持って頑張ってほしい。しかしこの世界は、努力したから売れるものでもないし、どんなに曲が良くても歌がうまくても、必ずヒットが出るわけじゃない。運が大きく左右する。先が見えない日もあると思う。でも3年間はとにかく一生懸命頑張ってみよう。君ならきっと何かが掴めるはずだ。も しもそれでも夢が叶わなかったら、そのときは福岡に帰る日も来るかもしれない。それでも夢を信じて一緒に頑張ろう」
1979年1月中旬、蒲池法子の父親から電話がある。
『若松さん、すまない、ちょっと急ぎで久留米まで来てもらえないだろうか。娘がどうにもならないんだ』
『娘が言うことをどうしても聞かない。 家出をするとまで言っている。こうなると親としてはもう彼女の夢を叶えてやるしかない。若松さん、あなたに私の娘を預けます。 他でもないあなたに預けますので、責任を持って預かってください。 私はあなたを信じます』
1979年夏、高校3年の蒲池法子は上京し、芸能事務所サンミュージックに所属。堀越学園に編入。東京芸大出身の声楽の先生にヴォイストレーニングしてもらいながら、1980年のデビューを目指す。
デビュー曲。資生堂のCMソング。資生堂には誰が歌っている?と問い合わせが殺到した。
プロデューサー若松氏の語る「風立ちぬ」アルバム評
若松氏は8ページも語っていますが、一部抜粋。
今作から作詞はすべて松本隆さんにお願いした。聖子の娯楽性あふれる歌声に、洋楽的なサウンドと松本さんの文学的な詞があれば、最強の作品になると確信していたからだ。このアルバムは、A面を大滝詠一さんが作曲とアレンジ、B面のうち4曲を鈴木茂さんが編曲担当した。松本さんの紹介で、元はっぴいえんどの大滝さんや鈴木さんにお願いしたわけだが、実質、伝説のバンドはっぴいえんどが構築しているような作品となった。結果としてファン層も拡大し、聖子にとっては、ポップスやロックといったジャンルも超越したエポックな取り組みとなった。
大滝さんには初めにシングル「風立ちぬ」をお願いした。けれどここで、大滝さん独特のレコーディングスタイルに聖子が戸惑ってしまう。 通常は大抵デモテープが用意されているのだが、大滝さんの場合は何もなく、スタジオで大滝さんがいきなりピアノを弾き始め、それに合わせて聖子が歌いながらメロディを覚えていく形だった。そして途中で聖子が間違うと「あ、それもいいね」と言いながらどんどん曲が変わっていく。大滝さんは歌い方のこだわりや指摘も多数あり、それで聖子もどうしていいか迷ってしまった。しかしこれは、聖子の声の響きを確認しながら作るアーティスト同士の作曲スタイルだったのだ。 それを理解すると聖子も、次の録音からは切り替えて取り組んでいた。笑顔で歌いながら、たまにちらりと私を見てくるので、私も「がんばれ!」と目で合図を送りかえしたものだ。
ところで、大滝さんの「ALONG VACATION」 は、とてつもなく音楽的な作品だが大滝さんはこの中の5曲と「風立ちぬ」の5曲が対になるように作っていたという。 「君は天然色」と「冬の妖精」、「雨のウェンズデイ」と「ガラスの入江」、「恋するカレ ン」と「一千一秒物語」、「FUN×4」と「いちご畑でつかまえて」、「カナリア諸島にて」と「風立ちぬ」。 最近になってそれを知り、実に大滝さんらしいなと感じた。 ロンバケは1981年3月発売で「風立ちぬ」は半年後の10月発売。同じメンバーで同時期に作れば自然と似てくる。しかし、それでいいのだ。私は音楽を整理したくないし境界線も作りたくない。音楽は娯楽だからだ。人は枠からはみ出したものに惹かれる。ファンの方が謎解きをするように両方を聴き、楽しみ方が広がるのもおもしろい。
大滝さんは予算度外視でとことんこだわる方。「A LONG VACATION」も制作費が巨額だったと聞いている。フィル・スペクターばりのナイアガラ・サウンドで、「風立ちぬ」の録音スタジオにも何人もミュージシャンが来て同時に演奏していた。ミキシングも一人で長時間スタジオに籠り、スタッフも「大滝さん、何してんのかなぁ? 寝てるのかなぁ?」などと言いながら外のロビーで待っていた。 あんなふうにお金も時間もかけて作れたのは、時代もあるが、それだけ一人の才能に賭けるという機運があったからだろう。聖子のアルバムにもたくさんのエネルギーを注いでいただいた。おかげで素晴らしい作品に仕上がり、聖子の大きな財産となった。心から感謝している。
実はシングル『風立ちぬ』は、当初もう少しさりげないアレンジを希望していたのだが、思っていたより豪華になってしまい大滝さんに何度か修整のお願いをしている。だが全く聞き入れてもらえず、お任せするしかなかった。大滝さんは一言で言うと「マイ ワールドの極致」。一人で生きていく覚悟があったのかもしれない。それほど妥協しない、媚びない人だった。しかしそれも含めて、あの時代あの瞬間にご一緒できて本当によかったと思う。まさに奇跡的な「組み合わせ」だった。
この時期から少しずつ女性ファンが増え始めていった。松本隆さんに「聖子を息の長 い歌手にしてください」とお願いしていたことが、開花し始めていたのだ。歌詞の文学性、大滝詠一さんとの仕事による音楽的広がり。本来アイドルを聴かないようなクラシックや音響ファンも、聖子のアルバムに耳を傾けてくださるようになっていった。「風立ちぬ」はまさに松田聖子の分岐点となる作品だったのだ。
プロデューサー若松氏の語る「パイナップル」アルバム評
若松氏は7ページ語っていますが、一部抜粋。
「Pineapple」 では大村雅朗さんが大活躍。 当時の最新技術を多数取り入れ、シンセサイザーなど大きな機材を、いつもスタジオに持って来てくださっていた。大村さんは会うたびにサウンドがブラッシュアップされ、特に「パイナップル・アイランド」はデジタルのリズムが心地いい。この曲は、ミュージシャン・クレジットが4人のみ。他は大村さんによるデジタル・プログラミング。一方で間奏の水の音は完全なアナログで、 ボウルとピッチャーとバケツを大村さんが用意し、スタジオの中で自ら水を流して録音していた。 そういう技も織り交ぜながらの最先端サウンドを目の前で見せてもらい、 レコーディングも実に楽しかった。
最先端といえば、1982年10月にソニーから世界初のCDプレイヤーが発売され、 同時に世界で初めてCD化されたアルバムの一つが 「Pineapple」だった。CBS・ソニーは、ソフトとハード両方の充実を目指してソニーとCBSが設立したレコード会社である。CDはフィリップスとの共同開発で、大賀典雄社長自ら指揮を執る、業界を先導した一大プロジェクト。そのローンチは一つの到達点だったのだ。多くの方がレコードを買ってくださったおかげで、松田聖子がビリー・ジョエルやTOTOなどと共に世界で最初のCDに選ばれたのは実に光栄なことだ。
この時期はユ ーミンと初めてお仕事をしたのも大きなニュースだった。シングル「赤いスイートピー」や「渚のバルコニー」。このアルバムには収録されていないが「小麦色のマーメイド」もそうだ。 ユーミンとは、ご自宅で手料理をご馳走になりながら、正孝さんと3人で打ち合わせしたのが思い出深い。
しかし「赤いスイートピー」に関しては、少しだけ曲の調整をお願いしている。当初、中盤が下降旋律になっており、一方私は春に向かって気持ちが盛り上がっていくようなにしたかった。それでご多忙の中、調整をお願いすると、コンサートのリハーサル中であれば時間が取れると連絡があった。そこで会場にお邪魔させてもらったのだが、ユーミンは、大勢のバンドの皆さんとの作業を一旦中断してくださり、調整の希望に対しても「なるほど、そういうことですね」と、その場でピアノを弾きながらすぐに直してくださった。いま考えても感謝の言葉しかない。
同様に正隆さんも、アレンジにおいて大変丁寧に対応してくださった。レコーディング当日にミュージシャンが弾き出してみると、リズムが跳ねていて私の思っていたイメ ージと違っていたのだが、すぐさまその場で色々なパターンをピアノで弾いてくださり、そう、まさに一番最後の感じです!」と私が言うと「えっ、これでいいの?」と驚きながらも、私が選んだテンポを活かしてくださったのである。それがいまの「赤いスイートピー」になっているのだ。
この曲は聖子にもエピソードがある。「半年過ぎても~」の部分について、楽譜では当初「はーんとーし」という譜割になっており私も何度か指摘したのだが、レコーディングの際に聖子は、何テイク録っても「はんとーし」と歌っていたのだ。ところがユーミンが途中で「じゃあ、それでいきましょう」と言ってくださり、あっさり譜割は変更 となる。ユーミンはいい意味で音楽的にこだわりすぎることなく、聴いたときの心地よさを優先し自由だったのだ。それは私も非常に共感する部分だった。ユーミンはしかもその後、原田知世さんの「時をかける少女」が歌番組で1位になった際に「若松さんの(上昇旋律の)アドバイスが大変参考になりました」とわざわざ電話でお礼をくださっ た。一流の方は違うなと、改めて感服した瞬間であった。
「渚のバルコニー」について、聖子はテレビで歌うときはキーを上げていたようだが、 レコードの方は少し低い。というのもテレビやライブは明るく弾けるような解放感が大事だが、レコードでは雰囲気を優先させて作っていたからだ。「右手に缶コーラ」の 「ラ」は、本人的には出しにくい音で本来の声域より低い。だがそのほうが曲全体の雰囲気が良くなるため、レコードはそういう色合いが優先されている。
「小麦色のマーメイド」も当初少し地味かなと思い松本隆さんにも相談したが、ユーミ ンと正隆さんがこういう世界観をいま聖子でやってみるべきだと考えているのだろう、と話してそのまま進めることにした。 結果的に和製AORとして現在でも非常に人気の高い曲となった。 松本さんの歌詞も、「好きよ、嫌いよ」「嘘よ、本気よ」といった相反する言葉を並列させながら真っ直ぐな女性心理を描いており、感服した。この3曲はアレンジの季節感もニュアンスに富み、聖子のファンに女性が増えていく大きな後押しとなっていった。
振り返ると「Pineapple」は、 前作「風立ちぬ」における大滝詠一さんの創造性にクリエイターたちが触発されたのかと思うほど、みなさんが先鋭的な冒険を重ねてくださり、大変な傑作となっている。松田聖子はまさにポップスの実験場だったのかもしれな い。そしてこの後もクオリティの高いアルバムが続々と生まれていった。 「Pineapple」 もまた、記念すべきターニング・ポイントとなった作品だったと思う。
夏の扉もいいですよね。見てるだけで幸せになる。
プロデューサー若松氏、82才にして初めて出した本。松田聖子が好きな人にとっては、とても面白い一冊です。
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