「蒼い時・山口百恵」を初めて読んだ。これ、すごいね。

山口百恵

偉大なる山口百恵。このまえキルト作品集で存在を思い出したので、読んでみました。

1970年代、日本で一番レコードを売上げた歌手。引退までにシングルは31作の累計で1630万枚、LPは45作の累計で434万枚。

1978年の紅白歌合戦で史上初、10代のトリ。最年少記録はいまだに破られていない。

ホリプロの自社ビルは「百恵ビル」といわれている。

超絶人気の21才で引退。そのとき発表された「蒼い時」は340万部を売る社会現象。芸能人の書く本はゴーストライターが多いと言われますが、本人が450枚も原稿に書いたそうです。初版本には、自筆の原稿用紙15枚が証拠として掲載されています。

山口百恵の原稿

もちろん構成とか手入れはプロがやってるでしょうけど。書けないときは瀬戸内寂聴がフォローしたそうです。

編集に残間氏を採用したのは本人執筆を依頼したから。楽屋に名前入り原稿を持ち込んで執筆する姿を、多くの同業者やマスコミ関係者が目撃しているそうです。

以下に「蒼い時」から。三浦友和との交際に関しての読書メモを残します。なんてまどろっこしいと思いますが、山口百恵はまだ高校生。高校生の頃の恋愛ってものすごく悩みますよね。そういう恋心が赤裸々に描かれています。




三浦友和と山口百恵のエピソード

・山口百恵(本名)、1959年1月17日生まれ。

・14才で歌手デビュー。森昌子、桜田淳子と「花の中三トリオ」といわれる。

・15才プリッツのCMではじめて三浦友和に出会う。友和は百恵の7才年上。「その時1台の白いクルマからひとりの青年が降り立った。ブルーのトレーニングウェアに身を包んだその人と一瞬目が合った。しかしお互いに挨拶を交わすでもなかった。緑地公園にトレーニングに来ているスポーツ選手という印象を持った。即座にそう思えるほど、彼は健康的だった。しばらく間があって、スタッフから紹介され挨拶を交わした。「よろしく」別に笑顔も作らずに、彼はその一言だけを置き去りにした。私は彼に対して、それまで決して出逢ったことのない世界を感じていた。軽はずみな笑い声など一切たてず、落ち着いた声で話すその人の語感が新鮮だった」

・映画「伊豆の踊子」で共演。私は親しく話をすることができなかった。7才という年齢差が大きな壁となって立ちふさがっていた。彼は私の世界などに何の興味もない大人だった。

・やがて仕事を重ねるにつれ、少しずつ言葉を交わせるようになり、時には軽口を叩きあったりもできるようになった。もともと会話を得意としない私にとってそれは苦痛でもあった。せっかく話をしていても話が持続しない。自分は面白くないことばかりいってる。二人の会話はいつも簡単に途絶えてしまった。彼を一人の異性として意識していた自分に対する、ひとりの女としての自信のなさでもあった。彼の名前そのものを口にすることに、かすかなためらいを覚えた。

・そうする間に、CM、「伊豆の踊子」「潮騒」「絶唱」、テレビドラマ、いつの間にか私たちはゴールデンコンビと呼ばれるようになっていた。毎日の生活時間のほとんどを共にしていた。親や妹と顔を合わせるよりも多くの時間、彼とともに仕事をしていた。

・彼の胸に顔を埋めるシーンで、厚手のセーターを通して、私の耳に響いてくる彼の鼓動を聞きながら、「この鼓動を特別の意識をもって聞くことのできる女性に、私がなれたら」と思った。それはまぎれもない恋の実感だった。

・7才という年のひらき。彼はこの時23才。すでに立派な男である。特定の女性がいても不思議はない。黙っていよう。口に出すことで、笑顔で言葉を交わせる状態を壊してしまうことが耐えられなかった。恋人でなくてもいい。ただの仕事仲間で我慢しよう。

・なんという馬鹿なことを言ってしまったのか。可愛げのない女だと思われてしまったに違いない。私は彼に誰よりも嫌われてしまったと思い込んだ。私は彼の視線を敬遠し、彼の視界から遠ざかった。だから彼から初めて気持ちを打ち明けられた時の私の戸惑いは、大きかった。

・それは何度目かのハワイだった。撮影の合間私たちは彼の友人を伴ってドライブに出かけた。私は2人きりでないことに安堵し気軽に車に乗り込んだ。途中、友人がアイスを買うために車を降りた。その何分かの間、彼は私への気持ちを打ち明けた。私を好きでいてくれたことを彼自身から言葉で伝えられたことが、私は信じられなかった。甘えることが下手で、気が強くて、無邪気になれなくて、ひとりの女として愛される自信がなかった。このことはその旅にめずらしく同行していた母にだけは伝えた。母はただ黙って微笑んでいた。

・驚きが喜びに変わるまで、ずいぶん時間がかかった。彼から手渡された電話番号も、しばらくは役に立たずにいた。電話をするのが怖かった。ダイヤルを半分まで回してその受話器を置いた。電話をかけても「どうしたの」と何事もなかったような返事しか返ってこないのではないだろうか。私はあれこれひとりで思いをめぐらし、そのあとでこの恋に期待をするのはやめようと決めていた。

・心を打ち明けられたあとも、私たちは毎日のように仕事場で顔を合わせていた。しかし気持ちを聞いてから、彼と個人的に口をきくまでに1カ月半もの時間が経過した。




・「彼女に電話してほしいって伝えてくれよ」これで電話ができる。本当に電話してもいいんだわ。私はその夜、ハワイで手渡されたメモを読みながら彼の部屋へ電話を入れた。

・電話をしても相槌だけで終わってしまうことが大半だった。私が何か話しかけてもきっと退屈させるだけだろう。沈黙が広がる。顔が見えない分だけよけいに不安で、続けようにも話がない。切ろうにも切れない。もどかしい時間だけが経過した。

・電話だけの交際が始まって約8カ月が過ぎた頃、ふたりは結ばれた。そんなことがあったからと言って結婚や将来に対する期待を持ってはいけないと思っていた。恋人と認めたからには求めたいときもあるだろう。しかし私には自由な時間がなさすぎた。彼が求めているときに応えることができないという負い目は、予想以上に私を弱くした。彼を信じてはいたが、他の女性の影があっても仕方がないと、たえず自分に言い聞かせていた。

・彼と私の7年の隔たりがいっそう寂しかった。7年の間にどんな人と、どんな関りをもったのか。私は思いを彼の過去にまで馳せ、そのたびに挫折した。それでも私は、結ばれたことだけは後悔すまいと心に決めていた。

・私は今日まで彼以外の異性を知らない。あけっぴろげな性格と思われるのか、私にはとかく異性の噂が多かった。19才のときは1年間に13人もの男性と噂され雑誌をにぎわせた。怒るのを通りこして、母は「いいわね、一週ごとに恋人がかわって」とあきれながら笑っていた。

・私は誰とでもオープンに話をした。たまにはお茶を飲みにも出かけたし食事にも行った。何度か交際を申し込まれたこともあったが、一人として愛を対象に心を動かされたことはなかった。

・早春の一夜、私たちはスタッフを含めて六本木のレストランで食事をしていた。総勢7~8人。ふと気がつくと、私と彼の周りから人がいなくなっている。彼がすばやくいった。「結婚を考えているから、そのつもりで」私は即座に「うん」と返事をした。事の大きさを量る前に、席を外していた周りの人たちが帰ってきた。

・六本木のレストランで、一言「うん」というあまりに簡単な返事をもらった彼のほうも、私が本気にしていないのではないかと、半信半疑だったらしく、時間をおかずわが家を訪ねてきた。

・結婚申し込みをしたあとで、母は笑顔をいつものおだやかな表情に戻し、彼の目を見ながらはっきりと言ったという。「それはあなたが、家の事情をよくご存じの上でおっしゃってくださっている言葉なのですか(百恵は愛人の子。認知はされている)」

・親に告げて私たちの婚約時代はスタートした。しかし考えなければならないことが山積みされていた。私たちが婚約を発表したのは、この日から1年もたってからのことだった。

・彼と私。暖かいたくさんの人たちに見守られながら、今人生のスタートを切ろうとしている。そしてあたり前のことだが、結婚するからには一生添い遂げたい。いつかヨーロッパの風景の中で見た静かな老夫婦のように、私たちも時間や事件を超えて微笑んでいる二人になりたい。

まとめと感想

200年後は「百恵神社」とかできてそうです。もはや「芸能の神」のような存在。

100年に一人の芸能人です。70年代に日本で一番レコード売って、ドラマをやれば「赤いシリーズ」は視聴率30%。主演映画もヒット。本を出せば300万部。ホリプロの柱を立てた。

15才で友和と出会い、初めて男性とつきあって結ばれる。19歳で婚約。10代を全力で疾走して超絶人気の21才で完全引退。その人と一生添い遂げ家庭にも恵まれる。

何の未練も残さず、完全引退というのも美しい。

母子家庭で母は内職しながら、時には生活保護を受けながら、百恵姉妹を育て上げたという。そういうバックボーンも日本人の琴線に触れる。妹の学費などは百恵が面倒を見ていたので、結婚後は母妹と同居もする。すべてマルっと面倒見た友和もえらい。

10年に一人ぐらい、時代を象徴する女性シンガーが出てきます。80年代は松田聖子、90年代は宇多田ヒカル、00年代はアンジェラアキ、2010年代はBABYMETAL。

みんなすごいです。でも山口百恵ほどの感動がない。

今回彼女のいろんなインタビュ動画を見て思ったこと。山口百恵は頭がいい。「言葉の選択」が絶妙なのと「EQ」が高いと思われます。だから当代随一の美男「三浦友和」も彼女を選んだ。昔はわからなかったけど今は理解できる。

山口百恵以上の国民的大スターは、もう二度と出てこないでしょう。

1980年10月5日武道館で開催されたファイナルコンサートの翌日、10月6日「夜のヒットスタジオ」の引退特集番組です。

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山口百恵の現在~「時間の花束(キルト作品集)」より
https://book-jockey.com/archives/5872

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