洋楽ファンならみんな知ってる、ウィーアーザワールド♪
バンドエイドのドゥゼイノウ・イッツ・クリスマスの二番煎じでしたが。全盛を迎えたMTVで、アメリカの人気歌手が一堂に会するのをみて、ワクワクした人も多かったと思います。
そのメイキングについては、ほとんど知りませんでした。あらためて読んでみると、裏でそんなことがあったのかと。
バンドエイドは黒人が4人と少ない。もっと黒人が「アフリカの飢餓」に関わるべきだと。
ウィーアーザワールドは、ハリー・ベラフォンテ(バナナボートのヒット曲)の発案です。ハリーはまず米国レコード業界で大きな影響力を持つ白人マネージャー、ケン・クレイガンの元を訪ねる。
(ハリーベラフォンテ)
ライオネル・リッチーやケニー・ロジャースのマネージャーを務めるクレイガンは、主旨に賛同し協力を約束します。
クレイガンはスリラーを手掛けた、名匠クインシー・ジョーンズにプロデュースを依頼。ほどなくマイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチー、スティービー・ワンダーなど、ブラックアメリカンを代表する音楽家と、米国の国民的歌手ケニー・ロジャースが主要メンバーになることが決まる。さらにクレイガンは全米TOP40を眺め、大衆の支持を得た上位の者から次々に声をかけます。
作詞作曲はマイケルジャクソンと、ライオネル・リッチーが担当しました。メロディは主にAメロからサビのタイトルまでの導入部分をライオネルが、印象に残るサビ後半部分(1番ではダイアナロスが歌ってる箇所)とブリッジを、マイケルが担当しています。ジャクソン家のスタジオで3日こもってつくった。
クインシーは当初、スティービーワンダーとライオネルリッチーに作詞作曲を依頼しようとしました。しかしスティービーは、翌年リリースされる「インスクエアサークル」制作に没頭していたため、「ヴィクトリーツアー」を終えたばかりのマイケルに、ライオネルとの共作を提案します。
クインシーがマイケルとライオネルに出したオーダーは、「レットイットビー」や「明日に架ける橋」のような、でっかいアンセム(賛歌)を作ってほしい、というもの。
ライオネルとマイケルの共作時は、「ライク・イエスタデイ」と仮タイトルで呼ばれていました。ビートルズの「イエスタデイみたいな名曲」をつくりたいとの思いからです。
演奏者はドラムはジョンロビンソン、ベースにルイスジャクソン、鍵盤奏者グレッグフィリンゲンズ等。クインシージョーンズが信頼するスタジオミュージシャンで、つまりそれは、マイケルのオフザウォールとスリラーのチームです。
ここまでざっと録音日までの概要を要約しました。録音当日の詳細等は本書にて。
ちなみにwikiによると、プリンスがトラブルに巻き込まれて、マイケルが代役を務めたと書かれていますが、本書によると以下。
プリンスはボディガードがマスコミともめ、自らも警察に取り調べを受けて欠席した。ヒューイルイスが、プリンスの歌うはずだったブリッジ部分の代役に選ばれた。ヒューイがメロディと歌詞を急きょその場で教わり、パワフルな歌唱で作者のマイケルや、クインシーを喜ばせるシーンは、そのままドキュメンタリー映像に収められている。
どっちが正しいんでしょうね。
目次
ウィーアーザワールドの呪いとは何か?
「ウィアーザワールドに参加した現役世代のアーティストは、翌1986年までの2年間で自身の調子を最大に上げた後、軒並み失速する」ということだそうで。
世界的規模で消費されつくし、カリスマ性や神秘性がなくなったと。まるで露出しすぎた「一発ギャグ芸人」のように。
本書では、参加したアーティストのヒットチャートを細かく検証します。呪いが発動したアーティスト。ライオネルリッチー、スティービーワンダー、ティナターナー、ビリージョエル、ダイアナロス、ケニーロギンス、スティーブペリー、ホールアンドオーツ、ヒューイルイス、シンディローパー・・・etc.
参加しなかったマドンナやプリンスやジャネットジャクソンは、その後もヒットが続きます。
そう言われれば、そうかなという仮説です。タイトルの謎が回収できました。
ポップスの定義
ポップスは和製英語。ポピュラーからの派生語。リズムやメロディ、ハーモニーがあり、数分間で完結する。主に歌が主役で口ずさめるもの。20世紀のアメリカで生まれ、世界中に広がった大衆音楽。
ティン・パン・アレイとは何か?
アメリカンポップスの聖地。直訳するとスズの鍋の裏通り。ガーシュインは15歳のころ、楽譜出版社や楽器店があつまるニューヨークの劇場街、ブロードウェイの一角で、楽譜のデモ演奏の仕事をしていた。マンハッタンの28丁目5番街と、ブロードウェイに挟まれた場所がティンパンアレイ。
その時代のレコードは高価なため、多くの家庭にあるピアノで、それぞれヒット曲を弾くことが庶民の娯楽であった。どんな楽曲かお客に知らせるため、まずデモ演奏家がピアノで弾いて見せる必要があった。
当時の音楽業界の主商品は楽譜だった。集結した楽譜出版社や楽器店が、それぞれの楽曲を試演していたため、まるで鍋釜を叩いているかのように賑やかで騒々しく、それが「ティン・パン・アレイ」という呼称につながった。
ちなみにガーシュイン。映画誕生とほぼ同じ1898年生まれ。38歳の若さで亡くなるまで、オペラ2曲、ミュージカル50曲、管弦楽曲7曲、歌曲500曲の作品を制作。ポップス、クラシックの両面でアメリカ音楽の道筋を決定づけた。
モータウンを簡単にまとめる
ティンパンアレイ式の分業制を踏襲していた。優秀な「職業作家」「演奏者」「シンガー、パフォーマー」を分割し、それぞれ自在に組み合わせることを得意とした。専属ソングライター、凄腕スタジオミュージシャンからの楽曲は、次々と所属グループやシンガーに分配され、ヴォーカルが録音されるやいなや、切れ目なくヒットチャートに送り込まれた。全盛期は60年代初頭から70年ごろまで。
社長のベリー・ゴーディ・ジュニアは、あらゆる人種にモータウンサウンドが愛されることを願い、「人種対立を想起させるような生々しいテーマ」の歌詞を、できるだけ排除した。
1970年、ソロシンガーソングライターブームが訪れる。ニューヨークのティンパンアレイで、すでに長きにわたり裏方として、多くのスター歌手に数々のヒット曲を提供してきたキャロル・キングが、自ら歌う道を選んだのがその象徴だろう。
モータウンでもマーヴィンゲイやスティービーワンダーが、表現する権利をモータウンに要求しはじめる。マイケルジャクソン(ジャクソン5)は、創造的自由を求め、1975年にモータウンを去る。70年代はコモドアーズが引っ張るが、モータウンの全盛時代は終わる。
ロサンジェルスオリンピック閉会式
言わずと知れたライオネルリッチーのオールナイトロング。ちなみにこの閉会式、そもそもの企画は、ハリウッドのチャイニーズ・シアター前で、フランク・シナトラ、バーブラ・ストライサンド、マイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチー、4人の人種、年齢、性別を超えたスター歌手が終結する、というものだったそうだ。
ライオネル曰く、「フランクも、バーブラも、マイケルも、とんでもない高額の出演料を要求したんだ。僕は一番条件が低かったからオファーがまとまり、結局僕がひとりで歌うことになったんだ」
MTVは黒人作品を最初流さなかった。
当初、白人アーティストのビデオ以外は、ほぼ流さなかった。開局から1年半で750本のビデオが流されたが、黒人作品は3%未満だった。MTVの顧客が、比較的裕福な白人家庭の青少年たちであったことが最大の要因。有料チャンネルの視聴料を実際に払うのは、両親か同居する祖父母。彼らは自分の子や孫が黒人アーティストに夢中になることを敬遠する。
誰がMTVを変えたのか?
マイケルのスリラー。MTVは黒人アーティストのマイケルのビデオ放送を拒否する。これに対して、所属レコード会社CBSが猛抗議。MTVからの自社管理楽曲の完全撤退を表明し交渉した。
他のレコード会社の追従を恐れたMTVが、ビリージーンを解禁。ここからマイケルやプリンスなど黒人アーティストの快進撃がはじまった。
We are the World ♪
むかしワールド(ラグビー)のサポーターがよく歌ってました。