1973年~1980年という、わずか8年の活動期間。
日本の芸能史上、最重要人物となった山口百恵さん。伝説を超え神話になった。
『1980年10月5日、日本武道館で開催されたファイナルコンサートでは、ファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となった。歌唱終了後ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩みながら去っていった』
1980年11月19日、21歳で三浦友和と結婚。その後きっぱりと表舞台から引退。後継者として出てきた松田聖子の人生とは対照的です。
以下に本書から山口百恵さんの言葉を。
本書からの山口百恵さんの言葉
・暮らしの中に「手仕事」の時間があることをとても幸せに思っています。
・キルトに出会って32年。これまでの人生の半分を超えました。
・キルトの先生から「いずれ作品集のような形で発表したら?」と言われ、夫にその話をすると、「30年以上続けてきたことだし、還暦のいい記念になる。やってみたらいいんじゃない」
・夫と相談をして、この作品集の出版にあたって生まれる利益があるならば、東日本大震災や、あれから日本各地で起きた災害などで、わずかでもお役に立てるように、寄付をさせていただこうと思います。
・キルトを長く続けている人は、家族との生活が一番で、キルトは2番目または3番目に位置付けているから継続できているのだと、周りを見渡し、自分の今までを振り返って確信しています。
・布って癒しだとおもう。触っているだけで、何か心が落ち着くし、布ものが膝の上にポンとあるだけで、すごく気分がいい。
・あるテレビで見た、ご年輩の男性の言葉が、とても心に残っています。「すべての人生において、人は人に種を蒔くために生まれてきた」「重要なことは人生に計画を立てないこと。心が人生を示してくれる」。計り事ではなく、偶然を楽しむことが、思いがけずに人としての至福を与えてくれる。私もそんなふうに愉しみ、何かしら人のために種を蒔ける人になれたら、と思っています。
・洋裁も和裁も得意だった母。何かの折に「教えて」と言ったとき、「いやよ」と応えた母。「親子・兄弟はわがままが出るから、ものを教え合わない方がいいの」(三浦友和への)半纏をつくる私の姿を見て、できるとは思ってなかった針仕事を始めたことを、実はとても喜んでくれていました。
・長男の入園のときに、ワクワクどきどきしながらバッグと体操着袋をつくりました。次男を連れて園に送って行き、長男が玄関で靴箱に靴をしまうと、まだ入園していない次男も靴箱に靴を入れようとします。それで同じバッグと体操袋をつくり、気持ちだけでも入園させてあげました。今、これらのキルトを見ると、当時一緒に歩いていた子どもの頭の位置が、自分の体のどの位置にあったかなどの背の高さや、その時の気温や季節の匂いまで鮮明に思い出し、我が家の在りし日を偲ばせる愛しいキルトになりました。
作品ごとに三浦百恵さんのコメントがついていますので、これまでの彼女の人生が透けてみえるような作品集です。ご興味ある方はぜひご一読を。
読んで思ったこと。理想の夫婦なんですが、山口百恵さんも素晴らしいですが、三浦友和さんも真摯な人だったということ。付き合ったらちゃんと結婚して浮気ひとつしない。
以下に本書からの作品3つと、山口百恵さんの近影を3つ。
山口百恵さんのキルト作品と近影
武道館ラストコンサートの言葉どおり、みなを裏切らず幸せに生きているのがうれしいです。
(関連記事)
「蒼い時・山口百恵」を初めて読んだ。これ、すごいね。
https://book-jockey.com/archives/6682
山口百恵…..懐かしいですね….