一読して思ったことは2つです。1つはスエーデンボルグの死後の世界観というのが、プルーフオブヘブンのエベン氏と相当に類似している事です。エベン氏は自らの臨死体験を書きあげるまでは、世にある臨死体験本に意識的に目を通さなかったようです(息子のアドバイス)。それでも似てた。だいたい以下のような世界観です。
「人は死ぬと魂というか自我が抜け出して、それの集合体のような様な所で一体となる。そこは慈愛に満ち溢れるところで全知全能を感じる場所である。時間の概念が無くて、言葉でコミュニケーションしなくても感じ合える。」
どこかで読んだ話では、最新の物理学では素粒子と言うのは無から湧き出てくるらしい。別次元からやってきます。物質の最小単位は素粒子で、素粒子(ボール)<原子核(野球場)<原子(地球)という大きさのイメージだそうです。
そこで思いつく仮説は、人(物質)は死ぬと素粒子になり、素粒子が意識を持ったまま、別次元にある素粒子の固まりの所で一体となる。神とはある種の素粒子(100種類以上ある)の集合体のことであり、それは最小単位であるので、もちろん物質を形作る元にもなっている。
ちなみに素粒子の一種であるニュートリノは1秒間に1兆個手のひらを貫通してるそうです。いわゆるビジネス本の名著と言われるものは、利他的な動きをすると人の想念を動かして物事がそのようになる、思考は現実化するといいます。これらも素粒子(想念とも言えるか)が関係してると直感的には思います。
2つ目は、ヘレンケラーってめちゃくちゃ賢いという事です。耳が聞こえない、目が見えない、とうぜん最初はしゃべれないという三重苦を背負いながら、ハーバード(女子部のラドクリフ大学)に通います。そんな賢人が内面から紡ぎだした哲学や宗教解釈は、キリスト教の素養の無いぼくのような人間には難しかった。わずか200pですが、読むのにだいぶ時間がかかりました。
以下に読書メモを。
ヘレンケラーとは
ヘレンは熱病のため2歳になる前に失明し、耳と発話の機能も失いました。彼女を連れて両親がグレアムベルを訪ねたのは、ヘレンが6歳のときでした。ベルは電話の発明者です。ベル家は代々、障害者教育に力を注ぎました。グレアムの祖父は吃音矯正の創始者、父のメルヴィルは聾唖教育に必要な読唇法の発明者でした。グレアムの電話の発明はベル家の長年の聾唖教育の延長戦の出来事だったのです。
そのグレアムがケラー家に家庭教師として紹介したのが「奇跡の人the Miracle Worker 」サリヴァン先生です。
彼女はこのとき20歳。以後50年もヘレンに影のように寄り添います。サリヴァンは盲学校に入るまでは孤児同然であり、視力も失いかけてました。彼女はヘレンに「私の幸福はサリヴァン先生の不幸の上に成り立っている」と語らせるほど、献身的でした。その驚異的な努力によって、ヘレンは読み書きを覚え、話せるようになり、ラドクリフ女子大学を優秀な成績で卒業しました。その後88歳で世を去るまでどんな働きをしたかは周知の通りです。
ヘレンの目覚め本人談
「私が言葉を使い始めたのは7歳の頃ですが、そのとき経験した感情をはっきり憶えています。私はまず一語一語を手の感覚で学び、何年かのちにその発音を学びました。私が思うにたいていの人は発音と同時にその言葉の意味を学んでいくのでしょう。けれども私の場合は、言葉が思考のシンボルであるということをある日突然理解したのです。
私の恩師サリヴァン先生は、それより1ヶ月近く前から私の家に住み、いろんなものの名前を教えてくれていました。彼女は私の手にものをつかませては、私の手のひらに指で綴りを書いたり、私がその字を書くのを助けてくれたりしていました。けれども、私は自分が何をしているのかさっぱり分かっていませんでした。そのとき何を考えていたのかは、今でも分かりません。ただあちこちへ動いてゆく指の感触を憶えているばかりです。ある日、先生は私にコップを手渡し、その単語の綴りを書きました。それからコップに少し水を注ぎ、WATERと綴りました。
彼女の話では、私は2つの言葉を混同し、コップを水と綴り、水をコップと綴ったそうです。サリヴァン先生があまりにこの言葉を繰り返し続けるので、私はとうとう怒り出してしまいました。彼女はがっかりして私をポンプ小屋へ連れてゆき、彼女がポンプを漕いでいるあいだ、その水をコップで受けるように私に指示しました。そして空いたほうの手でふたたびいWATERと書きました。
冷たい水の筋が私の手を流れているあいだ、私は全身の注意力を先生の指の動きに集中しながら、じっと立っていました。突然私の中に不思議な感動が湧き上がりました。先生が指を使ってしていることは、私の手の上を走り抜ける冷たい何かを意味しているのであり、こうした記号を使えば私も人に意志を伝えることができるのだと。
それは決して忘れることの出来ない素晴らしい1日でした。今ではそれが私の精神的目覚めであったことがわかります。私はすぐさまいろいろな方法で表現しました。手に触れるものはかたっぱしからその名前を知りたがりました。そしてその日の夜になるまでに私は30の言葉を憶えたのです。虚無感は消え去りました。
この素晴らしい出来事が起こる以前の私には、食べて飲んで寝るという本能の他には何もありませんでした。私の日々は、過去も現在も未来もなく、希望も期待もなく、好奇心も楽しみもない空白だったのです。
圧倒的なシーンですよね。機会があればヘレンケラーの著作をどうぞ。