なぜチェゲバラは人気なのか?簡単にまとめてみた

ジョンレノン曰く、「当時世界で一番カッコイイ男だった」

反米主義の象徴となり、たまにTシャツ着てる人も見かけます。べつに共産主義や社会主義者じゃなくても、ロックなアイコンになってしまった。

世界中でロックアイコンになってしまったチェ・ゲバラの写真は、いつ撮られたのか。

本書によると以下。

『CIAの破壊工作が激化した60年3月4日、ハバナ港で大惨事が発生した。81人が死亡、200人が負傷した。証拠はないが、CIAの犯行を疑う余地はなかった。チェは爆発音を聞き現場に急行、(医師でもあるので)負傷者に応急手当てをした。翌日合同葬儀が挙行された。

葬儀に参列したチェは、米国との対決を覚悟するかのように決然たる表情で、眼差しを遠い彼方に向けた。写真家アルベルト・コルダ(1928~2001)は、その瞬間を逃さなかった。この写真によって、若く凛々しい31歳のチェは永遠の革命家になった。1枚の写真が、1人の人物をこれほど印象深く捉えるのは稀だろう。

カストロが「社会主義革命」を宣言した61年4月16日、この写真は初めて「レボルシオン」紙に掲載される。コルダはこの1枚で「チェ・ゲバラ」という神話をつくり、自らも永遠の写真家となった』

チェゲバラ

かなりイケメン。外見だけでなく中身も凄い。



『1928年、アルゼンチンの裕福な家に生まれた革命家チェ・ゲバラ。医学生時代にラテンアメリカを旅し、貧富の格差や米国支配の問題に目覚める。カストロ兄弟と共にゲリラ戦で活躍し、59年のキューバ革命政権樹立に貢献。要職を歴任するものの、思いは全ラテンアメリカでの革命推進にあった。再び戦地に赴くチェ。だが前哨戦のコンゴ、続くボリビアで過酷な現実に直面し…。彼の遺した膨大な文章と関係者への取材から実像に迫る』

ラ米に精通した元共同通信の著者が、2010年に中央公論から執筆を打診され、丸5年資料を読み、自らの取材へ考察を加え、チェの生涯を再現した一冊です。淡々と事実が連なる伝記。新書で読みやすいので、チェに興味がある人にはお勧めです。せめてTシャツ着てる人は、読んでおくべきかと。

(目次)
1章:目覚めへの旅

2章:運命の出会い

3章:キューバ革命戦争

4章:革命政権の試行錯誤

5章:ヒロン浜の勝利

6章:ミサイル危機と経済停滞

7章:「出キューバ」へ

8章:コンゴ遠征

9章:ボリビア

なんか展開的には、司馬さんの「義経」読んでるような気分になります。以下に読書メモを。



別れの手紙は改ざんされた

フィデル・カストロは、テレビの全国放送で「別れの手紙」を読み上げた。チェがキューバを発つ前に書いた手紙。

チェは手紙の末尾を次のように記していた。「私は勝利するまではキューバに戻らない。だがいつも私の心には、”祖国か死か、勝利するのだ” の標語がある」

これが「勝利するまで、必ず」と縮められていた。

疑問に思った著者は、チェの娘アレイダ・ゲバラ医師にインタビューした。「あ、あれね。あれはフィデルが書き変えたのよ」娘は母親からその話を聴いていた。

フィデルは「勝利するまで帰らない」という手紙末尾の文言を消して、チェが万一勝利しても帰れないようにした。チェは苦悩した。自分が帰ってほしくない厄介者になってるのを悟って。

サルトルとチェ

サルトルはチェを、「今世紀でもっとも完璧な人間」と評した。また著書には、「ゲバラ司令官は大変な文化人で、彼の言葉1つ1つの背後に、黄金の蓄えがあるのを察知するのに時間はいらない」記した。

チェゲバラ

少年時代のチェ・ゲバラ

一家がアルタグラシアで住んだ家は現在、エルネスト・チェ・ゲバラ博物館になっている。書棚には、小学生時代に愛読したエミリオ・サルガリ(イタリアの作家)や、ジューヌ・ヴェルヌ(フランスの作家)の本が並ぶ。

小学校高学年になると父母の蔵書の多くを読み、父に、「12歳にして18歳くらいの教養がある」と言わしめた。

服装には無頓着で、貧しい身なりをし、野球帽をかぶっていた。アルタグラシアには中等学校(大学予科)がなく、チェは1942年にコルドバ市の国立中等学校に入学する。

チェは同級生の兄で6歳上のアルベルト・グラナード(1922~2011)と親友になる。国立コルドバ大学卒の理学修士で、専門はハンセン病だった。後年2人で南米大旅行をする。

チェはコルドバ時代に友人の手引きで家事手伝いの女性と関係し、童貞を捨てた。当時の上流階級の息子はしばしば、このような形で性の洗礼を受けていた。

チェの読書の幅は広がり、ボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌ、デュマ、ゾラなどのフランスの詩人や作家をフランス語で、米国の作家フォークナーやスタインベックはスペイン語訳で読んだ。スペインの詩人フェデリコ・ガルシアやチリの詩人パブロ・ネルーダを愛誦した。

チェの兄弟は3男2女。父は1947年にマテ草農場を手放した。ゲバラ家は有産層とは見なされなくなった。夫妻は翌年、夫の浮気性や経済面での苦境が原因で離婚する。だが2人はその後も家庭内別居の形で、長らく同じ家に住んだ。

チェは46年に中等学校を卒業、コルドバ大学工学部に願書を出したが考え直し、翌年国立ブエノスアイレス大学医学部に入学する。乳がんの手術を受けた母や、脳こうそくで病床にいた祖母、自身の持病ぜんそくから医師を志した。

チェが大学の図書館で、1日10時間も読書に没頭することは珍しくなかった。イブセン(ノルウェーの劇作家)、パスカル(フランスの哲学者)、サルトル、ネルー(インド首相)と、対象は広がっていた。

チェスやラグビーにも興じていた。心臓発作を招くと医師から忠告されてもラグビーをやめず、いつも友人が吸入器を手に待機していた。

服装には大学生になっても無頓着で、シャツを週1回しか着替えず、左右の靴や靴下が異なっても、気にせず履いていた。

広島を訪問したチェ語録

広島から妻アレイダに絵葉書を送った。

「広島のような地を訪れると、平和のために断固闘わなければならないと思う」

チェゲバラ

「工業の再建には目を見張るものがある。だが民族的誇りが失われていると感じた」

「この恐るべき現実を見たからには、広島と広島の人々を一層愛したいと思った」

「日本人は、米国にこんな残虐な目に遭わされて怒らないのか」

「なぜ日本は米国に対して原爆投下の責任を問わないのか」

運命の演説

チェはモスクワ批判の演説を、65年2月24日に行う。ブレジネフは激怒し、チェをなんとせよとカストロに迫る。

演説の概要は(詳細は本書で)、社会主義諸国の中でも先進国が後進国を搾取している。西側搾取諸国との共犯者であると。

チェは3月初めエジプトのナセル大統領に、コンゴ行きを打ち明けた。ナセルは、「行くべきでない。成功しない」と諭した。チェは「人生の転換点は誰にとっても死に直面する時だ。死に向き合う者は、成功しようとしまいと英雄だ。世界革命のために戦い、死に直面する場所を見つけたい」

コンゴでの部下への訓示

「犠牲を覚悟せよ。地元のゲリラより先に食事をしてはならない。優位性を示してはならず、謙虚であれ。四半世紀遅れた国であることに留意せよ。現地女性と交渉をもった者は、その女性に責任を負い、ゲリラから外される」

チェの最期

67年10月8日ボリビアのラ・イゲーラ村近くで、狙撃され捕獲、ラ・イゲーラ村に連行された。チェは国際世論の圧力で、解放されると期待していたかもしれない。だがラパスの軍政は「チェは戦闘中に死んだ」と偽りの情報を流した。裁判抜きの処刑は、殺害であり暗殺である。

10月9日午後1時10分、25歳の軍曹マリオ・テラーンは、チェの腰から下に銃口を向け目を閉じ、最初の連射をかけた。チェは自らの血の中に崩れ落ちた。

テラーンは勇気を取り戻し、2度目の連射をかけた。チェの腕、肩、心臓に当たり、チェは絶命した。

2006年1月就任したボリビア初の先住民大統領エボ・モラレス(現大統領)は、チェを礼賛し、コカの葉で飾ったチェの肖像画を政庁内に掲げている。ラ・イゲーラ村の中心部にはチェの大きな頭部像が設置され、台座には「あなたの模範は新たな黎明を照らす」の文字が刻まれている。

「チェの聖地」となったラ・イゲーラ村への若者、左翼らの巡礼や、観光客の訪問が絶えない。2017年10月9日のチェ没後50周年に向けて、チェに当てられる光は強さを増している。

挫折した悲劇の革命家は、処刑され滅びたことにより、求道者の悲壮な宿命と「見果てぬ夢」の象徴として繰り返しよみがえるのだ。

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