徳川家康が天下を取れた3つの理由

めっちゃ面白い日本史本。速読しやすいように構成されていて、しかも東新のカリスマ講師が口語で面白く語っている。日本史の予備校講師としてトップシェアだそうです。

図書館で借りたんですけどkindleで買って手元に置いておきたい。やっぱ歴史に学ぶことは多いので。Amazonでポイントたまったら買うつもりですが、最近本のタイトルをすぐに忘れてしまうので、備忘のための記事です。

徳川家康が天下を取れた3つの理由

家康は秀吉亡き後、数いる大名の中でも抜きん出た存在でした。家康が天下を取れた理由には、大きく分けて3つあります。

1つ目は、五大老の筆頭だったことです。 秀吉は独裁制を取りましたが、晩年になってようやく五大老や五奉行という政治体制を作ります。 しかし、有力な 大名を任命しただけで、 うまくシステム化されていないという弱点がありました。 システム化されていないという点では、源頼朝のときと似ています。

秀吉の死後、五大老の間で主導権をめぐって対立が起こります。この時点で家康は、幼少の秀頼 (秀吉の子)を 補佐するような形で政治を行っていたため、他の大名よりも有利だったわけです。

2つ目は、十分な財政基盤があったことです。 これは家康の拠点が関東だったことにも起因しているのですが、家康は秀吉政権下で関東仕置を命じられています。 関東仕置とは、関東を管理する役職です。秀吉は有力大名だった家族を政治の中心である京から遠ざけておきたかったのでしょう。

当時、関東はさほど重要な拠点ではありませんでした。そこで秀吉は家康に、 “辺境の地”を 任せる見返りとして、北条氏が所有していた250万石の領地を与えます。

秀吉政権の直轄地である蔵入地が220万石でしたから、それを上回る領地ということで、かなり優遇されていることがわかります(本来は家康くらいの大名だと100万石くらいが妥当でした)。

3つ目は、家康が朝鮮出兵を免れたことです。家康が関東仕置に任じられた2年後の1592年、文禄の役が起こります。諸大名が続々と出兵する中で、家康は 広大な所領の統括を理由に兵役を免除されるのですがこれが吉と出ます。関白の秀吉よりも大きな財政基盤に加え、さらに軍役による出費を抑えたことで、 家来たちを守ることができたわけです。

その後、1600年の関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年に征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開きます。家康は全国の大名に、国絵図と郷帳を提出させます。 国絵図は領地全体の地図、郷帳は村ごとの検地帳です。全国の土地情報を幕府に 集約させることで、自分こそが支配者だと明示したわけですね。



安政の大獄は、なぜ起こったのか?

井伊直弼の役職は大老です。大老は将軍を補佐する最高職ですが、常に置かれたわけではありません。国難ということで、阿部や堀田の就いていた老中よりも格上の大老が登場するわけです。

井伊はハリスの脅しに屈し、日米修好通商条約を結びます。その背景には、世界情勢が関係していました。

1856年、中国でアロー号事件が起こります。 広州に停泊していたイギリスのアヘン密輸船・アロー号が清の官憲 (役人)から立ち入り検査を受け、船員が 逮捕される事件でした。 この事件が第二次アヘン戦争に発展し、イギリス・フランスが勝利します。そして中国に不平等条約を結ばせたのです。

ハリスは日本との交渉の際、 この一連の出来事を引き合いに出します。アメリカと条約を結ばないと日本も中国と同じ目に遭うよとでも言いたかったのでしょうか。いずれにしても、強引に条約を締結させます。その内容は不平等を絵に描いたようなひどいもので、日本国内で反発が起こるきっかけとなりました。 内容は主に次の通りです。

①新たに横浜、長崎、 新潟、 神戸開港

②江戸、大坂の開市 (商売ができるようにすること)

③基本的に自由貿易とし、 開港場にアメリカ人居留地を 設ける

④関税は両国で協議して決める (協定関税制)

⑤ 日本で罪を犯した外国人は日本駐在の領事が裁判を行う(治外法権)

④の関税を自国で決定できないと、安い関税で外国の安い品物が次々に流入し、自国の産業を守ることが難しくなります。さらに⑤の、犯罪を起こした外国人を日本の裁判所で裁けないのも不平等です。 しかも裁判を行うのは日本の裁判官ではなく領事、つまり外交官です。

こうして国内から反発が起こる内容の条約を結んだ井伊直弼ですが、最近ではその評価も変わってきています。 当時、他のアジア諸国はヨーロッパと隷属的な内容の条約を結んでいました。 それに比べると日本の条約内容ははるかにましで、しかも「1872年7月4日には条約を改正できる」という条文までつけてきたため、 当時の幕府の外交官はなかなか優秀だったと評価する声もあるのです。

アメリカとの条約締結をきっかけに、日本はロシア、イギリス、フランス、オランダとも同様の通商条約を結びます。これを総称して「安政の五カ国条約」と言います。

一気に開国ムードが押し寄せ、 井伊たちが各国との対応が大変になってきたこの頃、幕府内で別の大きな問題が生じていました。 将軍継嗣問題です。

13代将軍・徳川家定は病弱で子どもがいなかったため、次期将軍の擁立を巡って一橋派と南紀派の派閥対立が起きます。

一橋派は、越前藩主・松平慶永や薩摩藩主島津斉彬をはじめとする改革派です。 前水戸藩主・徳川斉昭の子で、政治手腕に長けた一橋慶喜を推します。 一方の南紀派は譜代大名らが中心となり、 御三家の紀伊藩主・徳川慶福を支持します。

ここで井伊は、徳川慶福を次の将軍に決定します (のちの14代徳川家茂)。 井伊が南紀派だったため、一橋派を押し切ったわけです。ところがこの決定に、 一橋派の諸大名らは反発します。 こうして日米修好通商条約と将軍継嗣問題の両側面から反対の声が上がるわけです。

大老の井伊は、関係者を徹底的に弾圧することで対応します。1858年から1859年にかけての一連の弾圧を安政の大獄と言いますが、ここで有望な人材を 次々と処刑します。開国に反対だった公家や一橋派はもちろん、幕府を批判した橋本左内、松下村塾を作り、後の明治維新で活躍する人材を育てた吉田松陰らがその犠牲となりました。

いつの時代も、恐怖政治は良い結果を生みません。幕府への不満が日に日に増す中、1860年、井伊は 水戸浪士らに暗殺されてしまいます (桜田門外の変)。 井伊直弼亡き後、江戸幕府は一気に幕末の動乱へと突き進んでいきます。

安政の大獄を行えば、命を狙われることは井伊直弼自身もわかっていたでしょう。だからといって反対派を野放しにしてしまうと外国が黙っておらず、日本を攻撃してくるかもしれません。井伊直弼は、自分の命と将来の自分の評価を犠牲にして国を守った国士とも言えるのではないでしょうか。

ところで、井伊の政策は攘夷派から強い反発を受けましたが、そもそもなぜ攘夷論は起きたのでしょうか。

当時の日本は発展途上国だったため、金の価格もさることながら、物価が安いという特徴がありました。しかも日本製品は、勤勉な国民性も手伝って品質が高い。安価なのに高品質ということで、日本製品は外国でどんどん売れます。それを知った地方の商人は、商品を直接開港場に持ち込みます。その結果、 中枢の江戸に商品が入ってこなくなったのです。

そこで幕府は、五品江戸廻送令を出します。これは重要輸出品である五品目 (雑穀、なたね油、蠟、呉服、生糸)に限り、必ず江戸の問屋を経由させよというもの。まず江戸に商品を入れ、その余剰分を開港場に持って行くように、というお達しです。

しかし、開港場に持ち込んで外国に売れば儲かるのですから、地方在住の商人はもちろん、早く商品がほしい外国人が納得しません。そのため五品江戸廻送令は守られず、江戸の品不足にはますます拍車がかかり、物価もますます高騰していくのです。

日本の金も、外国にどんどん流出します。幕府は出ていく金を減らそうと、小判の質を大幅に落として万延小判を鋳造しますが、金の含有率が低いだけでなく、大きさもこれまでの半分ということもあり、貨幣の価値はどんどん下がります。

貨幣の価値が下がれば物価は上がりますから、江戸の物価は双方向から押し上げられて高騰します。最高時には、お米の値段が10倍にまで跳ね上がったと 言われています。

こうなったそもそもの原因は、開国にありました。

「開国 → 物資が開港場へ → 江戸が品不足に → 物価が高騰 → 金が流出 → 小判を改鋳せざるを得なくなる → 物価はさらに高騰」という流れです。

つまり、私たちを 苦しめている諸悪の根源は外国なので、外国人を日本から追放しよう、という考えから攘夷論が生まれたわけです。

では、「尊王攘夷」 と、攘夷に「尊王」がつくのはなぜかというと、朝廷の存在感が増したことにヒントがあります。

先の老中、阿部正弘は幕府の威信を失墜させましたが、 逆に朝廷の権威を高めました。 幕府に代わって孝明天皇は政治の主導権を握るべきだという考えも 生まれます。 もともと孝明天皇は攘夷派でしたから、 ここに尊王攘夷が合体し、「尊王攘夷」という考えが生まれたのです。

尊王撰夷 = 幕府を倒すことだと勘違いする人が多いのですが、簡単に言うと、ペリーやハリスのような 外国人の圧力に容易に屈するような幕府は頼りにならないから、孝明天皇を中心に攘夷をやっていこうということです。

この尊王攘夷の代表格が長州藩でした。やがてこの長州藩と薩摩藩が手を組み、 幕府を揺るがす存在になるのです。

水曜日のカンパネラ『見ざる聞かざる言わざる』

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