なぜ黒霧島は全国制覇できたのか?「記録ずくめの最強メーカー 黒霧島5000日戦争」より

霧島酒造

『1989年の発売以来「焼酎500年史」に例がない快進撃を見せ、その結果、霧島酒造は2012年売上高で三和酒類(いいちこ)を抜き日本一に躍り出た。翌年には全国の各地域で1割以上のシェアを握る国内制覇も達成。その成長力や収益力は名だたる大企業すら圧倒し、今や同社は、1990年代後半以降のデフレ下で最も事業拡大に成功した最強国内製造業の一社と言っていい。18年前経営危機にあった同社は、いかに蘇生し天下統一を成し遂げたのか』

今回は2014年11月10日号の日経ビジネス特集記事から。

黒霧島はお好きでしょうか?2000年代の中頃、関西でも黒霧島のブームは凄かった。個人的には一人で通えるショットバーを見つけて、よく通ってた時代です。洋酒をキープせずに、黒霧の一升瓶をキープしてました。麦なら二階堂、芋なら黒霧島。店に通う常連は、たいてい黒霧をキープしてました。品切れだったら二階堂。

芋焼酎なれど、甘くて飲みやすい。水割りでもロックでもいける。もちろん伊佐美クラス以上のプレミア焼酎はうまいですが高い。冨乃宝山でも高い。黒霧はコスパがとてつもなく良かった。

たまに焼酎の話になると、誰か曰く、「本場九州では焼酎といったら今は黒霧しか飲まん。結婚式でも博多の人は黒霧飲んでる。」とか言ってました。そのときは、そんなもんか、だけどちょっと言い過ぎでは?と思ってましたが、日経の特集を読むとそれはホントだったことがよくわかります。

以下に読書メモを。



記録ずくめの全国制覇。こんな会社見たことない

・1916年宮崎県都城市でイモ焼酎の製造を開始。90年代後半まではマイナーな中小蔵元のひとつだった。

・歴史が変わったのは黒霧島の発売から。霧島酒造が実現した全国制覇は日本の産業史に刻まれるべき歴史的快挙。

・成長力:98年に81億9300万円だった売上高は、2013年度には565億7600万円と約7倍に拡大した。帝国データバンク調査では、独立系でM&Aを実施せず15年間で7倍以上の成長を遂げた製造業は、ほかに日亜化学1社しかない。

・収益力:経常利益率は14%。国内製造業の大企業の過去10年間の経常利益率平均は約5%。霧島酒造は大企業の収益力の3倍。

・15年前「麦」は「芋」の3倍売れていたが、現在は「芋」が「麦」を逆転。霧島酒造たった1社で勢力図を塗り替えた。

黒霧島全国制覇への5000日

第1章1996年春 3代目就任

・2代目の急逝により、息子の江夏順行が社長に、江夏拓三が専務に就任。当時焼酎業界で8位。トップの「いいちこ」は「霧島」の5倍の売上高。2代目の江夏順吉は旧東京帝国大学で応用化学を学んだ秀才で、品質優先の手堅い経営をしていた。九州焼酎戦争は熾烈を極め、いいちこ、二階堂、雲海、白波、白岳がしのぎを削っていた。

第2章1998年夏 黒霧島誕生

・営業の要請は脱芋焼酎。「今さら芋焼酎は売れない」。3代目は「芋臭くない」芋焼酎の開発を特命チームに依頼した。

・専務の拓三は鹿児島の小さな蔵元を訪ね回り理想の味の焼酎を見つける。ブレンダーの奥野(84年入社、宮崎大学、微生物)に「ここにとてもおいしい焼酎がある。この品質に近づけて欲しい」。奥野は黒麹や酵母を数種類試し、数百回を超える調合を繰り返す。果てにたどり着いた風味は、芋焼酎の固定観念を覆したものとなった。

「芋臭くない焼酎」自己否定につながりかねない、起死回生の商品開発。強みは水。都城は霧島と桜島の間の盆地に位置し、火山灰の影響で水はけがよいシラス台地として形成された。地下150mに40億トンとも見込まれる水が自噴し、霧島酒造は先代の順吉が55年に採掘に成功。適度なミネラルと炭酸ガスを含む水が存分に使えた。

第3章2001年夏 決戦、福岡

・県外に出る。福岡県を戦略的地域と位置付け「福岡2倍作戦」、2年で売上を倍増する方針を打ち上げた。

・福岡県の5000店舗の酒販店に男性営業マンではなく、7人の女性を採用し「ハローレディ」と呼び、あえて女性の販促部隊を組織した。芋という言葉を出さず、黒を強調。酒屋の頑固おやじに女性の視点から営業活動。

・主力の男性営業マンをぞくぞく福岡に派遣。「黒キリ隊」とよび、各種イベントに参加させる。試供品は通常、夜、繁華街で配り、家に持って帰ってもらう。これを朝、駅前で配り、会社に持って行ってもらうという、「とにかく、職場で黒霧島の話題が出るようにしたい」、前代未聞の作戦を展開。黒霧島を職場に持ち込んだ人が、ファックスを送ると、その会社まで200mlx30本の試供品を無料で届けた。九州電力やソフトバンクなどの大企業から中小企業まで、ローラーで無料サンプルを配布した。配布した無料サンプルは10万本を優に超える。

昼は企業に配布、夜は昔ながらのどぶ板営業。今も博多の街にその名がとどろく初代福岡支店長の乙守。3年かけて女将を口説く。毎週数回店に顔を見せて酒を黙って飲んで帰る。女将は心を打たれ、3年後にキープボトルを霧島酒造に変えた。「乙ちゃんは義理と人情の男だった。その精神が現在の霧島酒造に受け継がれている」と女将は言う。



第4章2004年秋 生産革新

「バカヤロー、なんで商品がないんだ。謝るなら焼酎もってこい」

急激に人気が拡大し、商品不足になってしまった。2つの戦略を打ち出す。

・通年生産。通常芋が収穫できる9月から12月までの年間100日程度しか工場を稼働できない。麦や米にはない弱点。着目したのは冷凍芋による通年生産。中国に幹部がこぞって視察に行ったが品質が悪い。農薬の使い方も気になる。ここで焼酎メーカーとして前代未聞の発想をする。ならば自社で冷凍芋を作ってしまおう。様々な方法を試した結果、芋を蒸した直後にすぐ冷凍保存すると、品質が変わらないことが判明した(工程の詳細は本書にて)。「何度で解凍して仕込みに使えばよいか条件を探るのが大変だった」。焼酎500年史の常識を覆した、技術的なブレークスルーにより、2004年から生産体制を通年体制に切り替えた。

・通年生産するには大量の芋が必要になり、農家を囲い込むしかない。酒類業界全体でも珍しい、大規模な農家の囲い込みに乗り出す。現在50の仲買を通じ、2300の農家から原料を調達している。豊作、不作にかかわらず、毎年、栽培面積に応じ、一定の収入を保証する仕組みを取り入れた。通常は価格が大きく変動する芋だけに、農家にとっては極めてありがたい仕組みと言える。

第5章2006年夏 大型投資

・芋焼酎ブームに陰りが見えた2005年、200億円の売上高の会社が、100億円の工場新設の設備投資を行う。黒霧島の全国制覇で最終的な決め手となったのは、乾坤一擲の逆張り投資だった。通常だったら怖くてできない決断。製品に絶対の自信がないと踏み切れない。九州域内の10の金融機関から、期間10年の協調融資を受けた。

2011年には130億円を投じ、4つ目の大型工場を新設。焼酎業界では三和酒類と霧島酒造の2強が売上高500億円前後で君臨し、その他の焼酎メーカーとの2極化が加速。大型投資は吉と出た。会社の成長に伴い社員数も増えた。大卒の定期採用を始めた1997年、当時は採用14人に対し応募は31人にすぎなかった。それが今は900人の応募が殺到。社員数も416人に増えた。

第6章2011年春 そして首都圏へ

地方企業が業績を伸ばそうとすると、つい大都市の東京や大阪で勝負がしたくなる。しかし霧島酒造は販管費がかさむ大都市を最後まで避け、周辺の中規模都市から少しずつ攻略。足場を固めてから最終決戦に出た。博多を攻め落とし、同サイズの市場である広島と仙台を攻め、首都圏や関西などの大消費地は後回しにした。大消費地を攻めるのは販促費や人員が多く必要で成功しないリスクも背中合わせ。ランチェスター法則でいう弱者の戦略にも通ずる。最もうまみがありそうな東京攻略を後回しにしたのも、黒霧島の全国制覇を支えた重要な要素と言えそうだ。

2011年にようやく東京でのシェアが10%に到達した。販売量は前年比11%増。「年率10%で伸長するとその地域で需要が爆発することは福岡で経験済み。いよいよ首都圏に本格的に攻め入るときが来たと思った」専務の江夏拓三はこう振り返る。

2012年霧島酒造は三和酒類の売上額を追い抜き、念願の焼酎業界トップの座に就いた。黒霧島発売からおよそ5000日。芋焼酎で全国シェア4割。そのうち85%を黒霧島で稼ぐ霧島酒造。今後は商品の多様化を進め、ブランド力の向上や海外戦略も打ち出す。その先には1000億円の売上目標を見据える。

課題は、急成長の結果30~40代の中間層が手薄で、今後技術や社風の継承ができるかどうかの不安であると。

昔は黒霧島が一番美味いと思ってましたが、今は赤霧島が大好きです。

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