「農業を株式会社化すると、自給自足国家になれるんじゃない?」そう思ってました。「生産性を高めれば日本の食卓が救えるかも?」そう簡単じゃなかった。内田樹とか宇根豊のいうことを読んでるとムリっぽいです。
今回はなぜ株式会社化するのがムリっぽいのか、広告の後にざっと要約します。そのあと読書メモを記します。
株式会社の目的は利益です。一番安い原料を買って、一番人件費が安いところで製造して、儲けた金は租税回避地のペーパーカンパニーに送る。農産物を商品として考えるなら、利益率の高い商品作物をモノカルチャーで栽培するほうが、経済合理性が高い。
株式会社の原点は「ヴェニスの商人」を読むとよくわかる。船を仕立てアジアやアメリカへ送り出す。そこで現地の特産品を積み込んで帰ってくる。航海のたびに「金を出すやつはいるか?」ときいて出資者を募る。船が無事帰ってくると投資した金額の何倍も戻ってくるけど、船が沈没したら一文ももらえない。そういう投機的なもの。株式会社とはそういうものだ。
アントーニオは船が帰ってくると巨富を得るけれど、帰ってこないとシャイロックに追い込みをかけられる。船が戻ってくるかどうか誰にもわからない。リスクがあるからベネフィットがある。それが資本主義の基本的な考え。
株式会社の平均寿命は5年といわれてる。アップルもグーグルもフェイスブックも、あと10年後に存在するかどうか誰にもわからない。老舗の東芝も三菱自動車も日産も神戸製鋼もあと何年存在するか誰にもわからない。来年倒産しても誰も驚かない。営利企業とはそういうものだ。
農業をそういうものにしてしまっていいのか?
農業という産業が成立するには、その前段階として「不払い労働」が存在する。山が守られ、森が守られ、川が守られ、自然環境が整備されてないといけない。耕地をとりまくエコロジカルなシステムが整備されていなければ話にならない。誰かがそれをやらないと農業が成立しない。農家の人たちが日常生活の一部としてこれまで担ってきた。山に入れば下枝を刈り、手がすけば水路の補修や道路の補修を、村の仕事としてみんなで分担してきた。
もし仮に営利企業が農業に参入してきたら、彼らは環境整備のコストを負担するのか?
企業経営の基本戦略は「コストの外部化」にある。営利企業の創意工夫はいかにして自分が負担すべきコストを「他に押しつけるか」にかかっている。コストを外部化することに成功した企業ほど、大きな収益を上げる。彼らは「環境整備は自治体の仕事だ。税金を投入すべきだ」というはず。コストを外部化せず引き受けたら、農業では利益は見込めないから。
生産性が高いというのは、できるだけ人を雇わずに済むということ。「強い農業」の場合も、どうやって農業従事者を減らすか、雇用した場合でもどうやって低賃金で働かせて人件費のコストを削減するかが喫緊の課題になる。
自営農をやっていた人が土地を手放さないと大規模農業はできない。まず人々が耕作地を放棄することが必要だ。しかるのちに彼らを賃労働者として雇い入れる。それは自作農から小作農に身分が下がったということに他ならない。そういう人たちは「強い農業」からどう受益しているといえるのか?
不払い労働は自然環境の整備だけではない。祭礼や伝統芸能の継承もそうだ。集団が存続し続けるには求心力がいる。傍からみると遊んでるようにみえるけれど、実際には共同体を成立させるには必須のもの。祭りの準備をして、寄り合いをして、みんなで飲んでというのは農業には不可欠の行事。そのために割かれる時間と手間は、農業を可能にするために彼らが負担しているコストだ。
農業を法人経営してる人の話。「どうしても人を雇っているから、8時間以上働かせてはいけないので、いろいろと制約がでてしまう」。本来農家は農繁期はめちゃくちゃ働くもの。そのかわり農閑期にはゆっくり過ごす。5時なったから終われる仕事ではない。生き物が相手で、天地自然という共同体が母体だから。
じゃあ農業はどうすればいいのか?
資本主義から半分外せばいい。半分は資本主義に乗っかり市場経済でやる。もう半分は市場から完全に外すという政策。農業は商品以外にも価値を生む。赤とんぼが5000匹生まれたとかカエルが1万匹生まれたとか。涼しい風や素敵な風景が生まれてることも、農産物の価値に含ませていい。資本主義はそれを含ませるシステムを形成できなかった。
1つの方法が農家への「環境支払い」(直接支払い)だ。EU諸国では農家の所得の70数%は直接支払い。ドイツでさえ50%を超えている。農業の半分以上を資本主義から外して国民負担、税金でまかなっている。日本では農家の所得に占める農林水産予算はわずか16%しかない。
日本では、「環境支払いは生活保護に近いのではないか?」という見方をする。ドイツでそのことを農家に何度も聞いた。やはり「最初は嫌だった」とみんないう。自分の力で稼ぐのが本来の資本主義的な経営だという思いがある。助成金で直接所得を補償されることに抵抗があった。
「この支援金は、カネにならない自然環境や風景を守っている対価」という認識が世論になれば納得できる。
「ドイツって昔からみんな納得してたんですか?」「いや違う」と。20年ほど前からそういう価値転換が農家からも消費者からも出てきた。経済価値だけで考えたらこの村の風景は守れない。村の風景は農家だけのものでなく、消費者のものでもあるという価値観が、国民全体に広がってきたそうだ。
具体的な政策としてベルテンベルク州の場合、野の花28種の指標のうち4種類以上咲いていれば「環境支払い」が受けられるという。じっさいに探してみると、ほったらかしの草地も刈りすぎのところも見つからない。ほどよく1回2回刈ってる草地では、どこでも4種類以上の野の花が咲いている。
この政策は日本でも著者が導入した。福岡県で取り組んだが予算の問題があり3年で打ち切りになった。国でも「生き物指標」を定めた。3年で10億つぎ込んで案を作成。しかしお蔵入りになった。なぜ辞めたか?農水省の幹部に著者が確認すると「農業情勢が厳しい中、農家に新たな負担を強いることはできない」と。
以下にその他の読書メモを。
田んぼにどれくらいの生き物がいるのか?
田んぼには5868種の生き物がいることが明らかになった。虫だけに限定すれば害虫150種、益虫300種、ただの虫400種。ただの虫が圧倒的に多い。有用でも有害でもない生き物が圧倒的に多い。草もそう。だから田んぼは自然な感じがする。
そうした「ただの虫」とか「ただの草」が、いま絶滅寸前になっている。生き物たちが農家より先に危機に瀕している。
農業に生産性を求めると土地がやせる
農業や医療、宗教や教育は、果実を生み出し続けるような成長産業にはなり得ない。「社会的共通資本」であり、自由競争になじまない。社会的共通資本は、自然環境、社会的インフラ、制度資本に分類され、農業や医療は制度資本に含まれる。
農業は拡大再生産をしない。無理して3倍収穫しようとすると翌年は土地がやせてしまうとか、生態系に悪影響を与えてしまうとか、問題がおこる。
アメリカの農業は日本でマネできない
アメリカにはまず「無主の土地」があった。植民地でプランテーションがあった。奴隷制があり、最後に無尽蔵のエネルギー源(石油)が湧出した。これがアメリカという国の全産業の特殊性を形成する特殊な要因。無主の土地、植民地農業、奴隷制、石油の発見、このどれ1つが欠けてもアメリカの農業は今のような形になっていない。日本にはそのどの1つもない。
百姓という言葉の意味
百姓という言葉は中国から伝わったもので、「日本書紀」にも出てくる古典的な言葉。いわゆる王様とか貴族とか役人、武士ではない、「ふつうの人」という意味。
昔の一般人はほとんどが百姓だったから、いつのまにか日本では農業やってる人を百姓と呼ぶようになった。それが江戸時代になると年貢を納める人間が百姓と呼ばれるようになった。漁師も魚を売ってお金で年貢を納めるから、文書では百姓と書かれている。
小作人は自分では直接年貢を納めないから百姓とは呼ばれていない。「水呑み」としか呼ばれていない。江戸時代には百姓という言葉は、かなり誇り高い言葉だった。
百姓の言いかえ用語として「農家」「農民」が造語されたが、百姓以外の人間が「百姓」を差別用語だとする感覚でつくった言葉で、百姓自身が提案した言葉ではない。いまだにマスコミや行政は「百姓」という言葉を差別的だとして使用してない。
ところが1970年代に百姓と一緒に追放された「大工」や「左官」はいつのまにか復権している。
定常経済とは何か?
グローバル資本主義は終焉を迎え、定常経済の局面に入りつつある。
定常経済とはどんなものか?企業の場合には株主への配当のために、収益を上げることを求めないということ。
市場が求めるだけのものを作って売って、売上は人件費と減価償却に充当するだけで終わる。経済成長がないので、市場の需要は「買い替え需要」だけになる。
それでも株主への配当をしなければ企業は回る。株主はそういう企業が存在し、必要な商品とサービスを提供することがたいせつだと考える人が出資して、その活動を支える。
資本主義はその本性として「先のこと」は考えない。集団が生き延びるための社会的共通資本であっても、企業の当期利益になると思えば、どんどん市場に投じて商品化する。株主会社を野放しにすれば、森林の乱伐や大気汚染、水質汚染に歯止めがかからなくなる。
株式会社にとっては当期利益のほうが優先する。平均寿命5年の生き物だから「そんなことしたら100年後大変なことになる」と言われても、「知るか」という。それは僕たちも変わらない。「そんな生活習慣だと100年後に病気になるぞ」と警告されても歯牙にもかけない。
株式会社が危険なのはその点だ。だから農業のように長期にわたって安定的な環境が整備されていないと成立しない産業を、株式会社をモデルに制度設計してはならない。
これは南部の農家の歌♪
今は誰も語らないけど すべてが消えてしまった♪
必死になって綿花を栽培したけど お金にはならなかった♪
父さんはベテランで 民主党員だった♪
誰かがいった 大恐慌がきたって♪
綿花は大きくならず 雑草ばかり大きくなった♪
ぼくたちは貧しくなったけど ルーズベルトが救ってくれるって♪
結局ママは病気になって パパは農家をやめた♪
うちの畑は 州のものになった♪
パパはルーズベルトの公共工事(テネシー川流域開発・ニューディール政策)で働いて♪
洗濯機とシボレーを買ったよ♪
南部の歌を歌おうか♪
風と共にすべてが消え去ったいま♪
誰も過去を振り返らない♪
ボブ・マクディールが書いた曲。USWikiによると3回カバーされた。81年57位、82年72位、88年アラバマがアメリカとカナダで1位にヒットさせた。アラバマバージョンで。
89年のアルバム。アラバマは世界で最も売れたカントリーロックバンド。アルバム売上は約7500万枚。同数の売上はジャーニー、ニルヴァーナ、ブライアンダムス、ボブマーリー、ポリスなど。