ビートルズとストーンズの交流を探った本。
両者がどのような影響を与えあい、創造的触媒として機能しあったかという。
結成から半世紀を超え、神格化、伝説化されてる両ロックバンドですが、その歩みは決して順風満帆ではなく、泥臭く苦しみ、人間臭く悩み、結果として今の位置に到達しています。
「そのころのぼくらは、かなり不安定な状態だった。レコードが出せなかったらどうにもならない。成功できるなんて思えなかった。ぼくらが成功するって言っていたのは、ブライアン・エプスタイン(マネージャー)だけだった。ロンドンから戻ってきたブライアンは、ぼくらの顔をまともに見れなかった。20回はレコード会社から断られていたからね」
byジョンレノン
「レコード契約に関しては、ブライアンエプスタインに任せていたんだ。彼がリヴァプールへ帰ってきて「今回もダメだった」と言うのを何度聞いたことか。ぼくらはいつもライムストリート駅か、パンチ&ジュディという近くのコーヒーバーで、彼の列車が着くのを何時間も待ったものさ」
byポールマッカートニー
「俺たちは、いつ吹き飛んでもおかしくないバンドだった。成功するなんて誰も思ってなかった。望みといえばロンドン一のブルースバンドになって、女たちにいいところを見せてやることだけだった。それくらいならできそうだったから。みんなにマディウォーターズやジミーリードを教えてやろう。それだけだ。考えていたのは。レコードをつくるなんて、夢のまた夢だった」
byキースリチャーズ
「いかなることにも増して、お金で買えるあらゆるものを超越して、平土間一等席のうしろのほうで頬杖をつき、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの、ステージの幕が上がっていくのを見ているのが、私は好きなのです。明日はどんなふうになるのだろう。太陽はやはり明日も輝くと、私は思う」
byブライアンエプスタイン(補足するとエプスタインはゲイ)
「ぼくらはブライアンが死んだことをバンゴアで聞かされた。ズンと気持ちが重くなった。頭が混乱して、信じられなくて、ウソだろうとしか思えなかった。なにより死んだのは、ぼくらの友達だったんだ。ブライアンは友達だった。ぼくら全員取り残されてしまった」
byリンゴスター
「ブライアンが死んだあとは、ぽっかりと大きな穴が開いたようだった。彼と出会ってぼくらはプロになり、レコード業界やロンドン・パラディアムに向かって進み始めたんだから。ぼくらは自分たちのビジネスや金銭面については何も知らなかった。彼がすべてみてくれていたんだ。だから彼がいなくなったあとはメチャクチャだったね」
byジョージハリスン
ビートルズやストーンズでさえ、うまくいくと思ってなかったし、つらい思いを経験している。そう考えると、ぼくらの人生も少しは気が楽になりませんか?夢で飯は食えませんが、精神衛生上は小さな夢を見続けることが大切だと思います。
ついでと言ってはなんですが、83年初版の古い本が手元にあって、たまに読んでいるのですが、そこに書かれてある好きな部分を。
「コービンという町で小さなレストランを営んでいた老夫婦がいた。お客の90%までが旅行者で占められていた。ある日11キロはなれた地点にハイウェイができたことによって、お客はほとんど来なくなってしまった。66歳の店主は、生活保護を受ける生活を余儀なくされた。そして妻と逆境を嘆きあった。
しかしこれではいけないと、生活保護費の105ドルを元手にお客から好評の料理をつくり、車に積んで商売をはじめた。この人こそ、ケンタッキーフライドチキン創始者のサンダース会長であった」
以下に、その他の読書メモを。
ビートルズがデッカレコードのオーディションで落とされた本当の理由
最終的な判断は、マイクスミスに委ねた。私としてはどちらでもよかったんだ。マイクは迷った末にトレメローズを選んだ。マイクは言った。「両方のグループともよかったと思います。しかし一方がロンドンで、一方がリヴァプールということを考えれば、ロンドンのグループを選ぶべきでしょうね」私は彼の意見に同意した。いっしょに仕事をするとなると、地方のグループでは話にならない。その点ロンドンのグループは話が早い。すぐに連絡がとれるし、いつでもデッカのスタジオに来ることができる。当然の選択だった。
byディックロウ
歴史や定説ではディックロウがビートルズを落としたことになっている。だが事実はそうではない。マイクスミスが落としたんだ。トレメローズはマイクがロンドンで一番気に入っていたグループだった。しかもトレメローズは、それまでに何度もデッカのセッションで仕事をしていた。ようするにビートルズはマイクがトレメローズと契約しやすいように利用されたんだ。
byピートベスト
その後のジョージマーティン(プロデューサー)との出会いを思えば、デッカとの契約が不成立に終わったことは、ビートルズにとっては幸運だったというべきかもしれない。
LPの時代
当時は長続きした奴なんていなかったから、俺たちも2年でおわるだろうなって思っていた。ビートルズも同じことを考えていたはずさ。だが面白いことに、このころからLPが重要な要素になってきたんだ。それまではLPを買うのは、大人がクリスマスに20年前からファンだった、フランクシナトラやデュークエリントンのアルバムを買うぐらいだった。LPっていうのは思い出を甦らせる道具みたいなものだった。
そのころはイギリスのレコーディングアーティストはスタジオでヒット曲を1,2曲録音したら、あとの10曲は適当な曲で埋めるのが普通だった。でもビートルズと俺たちは、全曲シングルにするつもりで録音していた。あのころからレコーディングのやり方やレコードに対する考え方が変わってきて、バンドの寿命を延ばすことになったんだ
byキースリチャード
ノルウェイの森と黒くぬれのシタール
ジョージがシタールを手に入れたばかりだった。いろんなアレンジでやってみたけど、どれもしっくりこなかった。ぼくは頭にきはじめていた。ぼくが言ったとおりの仕上がりではなかったんだ。ジョージはその曲を弾けるかどうか確信をもてずにいた。まだあまりシタールを練習していなかったからね。だが彼には挑戦する気持ちがあった。ジョージはいつもの調子で演奏法を学び、あとからその部分を重ねた。
byジョンレノン
ブライアンジョーンズとはクラブでも会っていたし、よく遊んでいたよ。60年代の半ばくらいには、よくぼくの家に来ていた。とくに彼が不安になったときや、変なものを一度にいろいろやりすぎたときさ。庭から彼が「ジョージ、ジョージ」って叫ぶ声がすると、ぼくは彼を入れてやる。いい仲間だった。ぼくがシタールに凝っているころもしょっちゅう来ていたよ。「黒くぬれ」の話をしているうちに、彼がぼくのシタールをとって試してみた。すると彼、すぐに弾けちゃうんだよ。
考えてみれば僕ら2人(ジョージとブライアン)にはずいぶん共通点があった。誕生日もほとんど同じだし、世界で最も有名なバンドの中で同じような位置にいたしね。彼にはミックとキースがいて、ぼくにはジョンとポールがいた。彼はぼくと通じることをずいぶん感じていたと思うよ。ぼくは彼の事が好きだった。
byジョージハリスン
黒くぬれ!ローリングストーンズ
ノルウェイの森 ビートルズ