そういえば5人目のビートルズも、6人目のストーンズも、どちらも「スチュ」なんですよね。この本読んで、あらためて思いました。
ロック好きなら、ぜひとも読むべき本。おもしろい。自叙伝が、そのまま60年代以降のロック史になってる。
みなさんは、レコーディング・エンジニアとか、プロデューサーとか意識したことがありますか?有名どころだと、ボブ・クリアマウンテンとか、アラン・パーソンズとか、マーカス・ミラーとか・・
たぶんもっとも有名なのがグリン・ジョンズ。デビューから黄金期のストーンズ、ツエッペリンの1st、イーグルスの1st、フーのフーズ・ネクスト、ビートルズのアビーロード、etc.ロックファン必聴盤のミキシングやプロデュースを行っています。その回顧録は味わい深い。
グリン・ジョンズのエンジニア&プロデュース作品(初期)。
グリンは、最初からプロデューサーになろうと思ってたわけではありません。17才のとき、事務仕事は無理だし、学校は落ちこぼれだし、バンドもぱっとしない。百貨店でアルバイトしながら身の振り方を考えてたところ、3才年上の姉のスーから、知り合いのレコーディングスタジオの仕事を紹介されます。
面接には行ったが、6週間も連絡がない。落ちたと思ったけど、母親がこちらから連絡しなさいとアドバイス。幸運にも連絡したタイミングで欠員がでて、アシスタントエンジニアとして採用されました。
グリンの成長はストーンズと共にあります。駆け出しエンジニアのとき、巨大な才能であるストーンズに出会います。なんとか売り出したい。グリンは尽力するけど、ライブをやっても人が集まりません。ストーンズに一晩のギグで、3ポンドしか払えない日もあった(バンドとグリンは折半の契約)。おそらくストーンズのライブギャラでは、史上最低の金額です。
アンドルー・オールダムとマネジメントを取り合い、結果ストーンズはオールダムにつきます。オールダムは気に入らない奴だったけど、今後のエンジニアリングを頼まれ引き受ける。
これにより、ストーンズの最初期から黄金期のエンジニアは、ずっとグリン・ジョンズです。
そういう意味では、ストーンズファンは読むべき一冊。読み進めていくと、キンクスのユー・リアリ・ガット・ミーや、フーのマイ・ジェネレーションも、グリンがエンジニアしてました。いろんな名曲に絡んでます。
若いころはスチュと同居してたので、スチュの彼女にジェフ・ベックが間男しにきてけんかしたり、ジミー・ページ、クラプトン、ポール、ジョンなど、伝説の音楽家との逸話には目を見張ります。
彼は謙虚に言います。たまたま自分はアルバム・ロックの黎明期に、その場所にいただけだと。そうかもしれないけど、あまりにも幸運すぎる。
フィフティ―ズ(アメリカン・グラフィティのサントラ音楽)のサウンドが英国にわたり、ロックの歴史が大きく展開しているときに、その中心にいた。
以下に何点かの要約読書メモを。
目次
イーグルスのプロデュース、約17ページほど書かれてるものの要約
1971年11月、デビッド・ゲフィンから電話が来た。ゲフィンはアサイラムを興したばかりで、イーグルスと契約を結び、1作目のプロデューサーとして、わたしを抑えようとしていた。ゲフィンは自信満々で、ぜったいに売れるバンドだと。
クラブでの演奏を見にいくと、とくべつ光るものは無く、個性もかけていた。価値なしと判断し、そのままロンドンに戻った。
ゲフィンはあきらめることなく、君は最高の状況でイーグルスを見てない。といって譲らなかった。ゲフィンにあまりにうるさく言われて、わたしは仕方なしにLAに戻った。
彼らの演奏をもう一度見たが、結果は前回と同じだった。みなで建物を出ようかというとき誰かが言った。
「ちょっと待った。グリンにもう1曲、哀しみの我らだけ聴いてもらおうぜ」ランディがリードを歌う曲で、彼らはその曲をベースとドラムなし、バーニーとグレンがアコギで、建物の入り口近くに立ったまま演った。
そのハーモニーは天からの贈り物だった。わたしは唖然となった。4人とも優れたリードシンガーで、それぞれがまったく異なる声を有していた。その四声が合わさると、この上なく美しいサウンドを創りだす。
アルバム作りは楽しくおわったが、ちょっとした問題が生じた。ゲフィンがドン・ヘンリーのボーカルが一つ足りないと感じたのだ。レコーディングの際、ジャクソンブラウンの曲、ナイチンゲールの歌を2~3回試したがうまくいかず、そのまま私の時間切れになりあきらめていた。
Eagles 1stのオリンピックスタジオのセッティング↓
ところがある晩の午前3時、LAのゲフィンから電話があった。ナイチンゲールの歌をもう一度試してほしいと。私は丁寧に断った。しかし翌晩、ゲフィンはまったく同じ時間に電話をかけてきて、同じ話をはじめから繰り返した。私はブチぎれて断った。
こんどはバーニー・レドンから電話があった。他の人気エンジニアとナイチンゲールの歌を録音したが、うまくいかない。何とかしてほしいと。わたしは忠義に欠ける行動に激怒し電話を切った。
ロンドンでのフェイセズの録音まで6日あり、LAでザ・フーのマスタリングがあったので、ゲフィンの事務所に怒鳴り込んだ。イーグルスとゲフィンはその場にいた。
バンドはゲフィンに迫られてどうしようもなかったのだと釈明した。わたしからはあの曲の再録を拒まれ、ゲフィンからはあの曲がないとアルバムを出さないと言われ。私はついに折れ、再録に臨んだ。
同曲の存在はアルバムの成功には影響しなかった。売れたのはゲフィンの手腕だ。何としても我を通すゲフィンの執拗な姿勢は、作品の売り込みにおいて、巨大なプラスに転じたのは間違いない。
ジミー・ページはなぜグリンジョンズの仕事を辞退した?
ぼくが仕切る日曜のセッションは、無料でスタジオが使えるぞ、と知り合いに触れ回った。この言葉に惹かれて、やる気に満ちた若いミュージシャンが団体でやってきた。その一人にジミーページがいた。キングストンアートカレッジの学生で、クラプトンもそこに通ってた。わたしはジミーに、君にならちゃんと金をもらえるセッションを回せると伝えたが、最初は断られた。収入を得てることがばれると、奨学金をもらえなくなるからだという。
ローリング・ストーンズはスチュのバンド
ストーンズは良好なレコード契約を取りつけ、オールダムがマネジメントを手がけた。オールダムは見かけがそぐわないという独断で、スチュをストーンズから外すとの裁定を下した。スチュはかわりにバンドのロードマネージャーの職を任された。
(stu&mick)
彼がその通達を受けたとき、わたしがその決定に嫌悪の念を伝えると、スチュは意外にも、「大いに満足してる」と言った。「俺はそもそもポップスターとして暮らすことに魅力を感じてない。それにあいつらはものすごい成功を収める気がする。だから俺にとっては世界を見て回るのに、うってつけの機会になると思う」
スチュはまじめすぎる男だったから、ロックスターには向いてなかったと思う。ストーンズは間違いなく真の果報者だった。優れたピアニストの奉仕を受けただけでなく、これ以上ないほど信頼のおける友人が、ロードマネージャーとして付いたのだから。
キースは昔からいつも語ってる。「俺は今もスチュのために働いてる。俺に言わせれば、ザ・ローリング・ストーンズは、あくまでスチュのバンドなんだ」
ジミーペイジに頼まれたレッド・ツェッペリン1st
ジミー・ペイジから電話をもらった。共通の友人であるジョン・ポール・ジョーンズと、私が聞いたことのないドラマーとシンガーとバンドを組むと。
ジミーが言うには、素材が十分に集まった。アルバムを作るつもりだ。願わくば君とやりたい。わたしは飛びついた。ジミーとジョンが組んだのだから、いいものになるに決まってると。それからの9日間で私たちが作ったアルバムは、ロック史における大きな一歩だ。
アルバムが完成したのは、ストーンズの作品をまとめてる時だった。そこである日の制作会議に、ツェッペリンの1stをもっていき、ミックに聞かせた。「このバンドはこの先とてつもない大物になる。今のうちに前座に呼んだらどうだろう」ミックは聞き流した。ミックにはまるでピンとこなかったようだ。
ビートルズセッションからの帰り道には、ジョージ・ハリスンにもマスターテープを聞かせた。結果は同じで彼にもさっぱりだった。なんでこんなにすごいものが、彼らには理解できないんだ。
レット・イット・ブリードがベスト作品だ
ストーンズの作品で、一番のお気に入りは「レット・イット・ブリード」。いい曲ばかりだ。じつは「ホンキー・トンク・ウィメン」と「無情の世界」、どちらをシングルA面とするか意見が割れた。わたしは「無情の世界」を推し、激しく闘った。ミックはそれに反対で、ある晩スタジオに遊びに来たクラプトンに、選んでもらうことにした。「おまえの頭、ねじが緩んでるんじゃないか」と言って、クラプトンが選んだのはホンキー・トンク・ウィメン。同曲は米英のいずれでも1位にまで上がった。私の程度はこんなもんだ。
フーズ・ネクストのモノリス秘話。
ジャケットについては、わたしがイーサン・ラッセルを推した。彼はバンドをクルマに乗せてイングランド南部を2~3日走り回り、ぼた山から突き出す、コンクリートの石板(モノリス)をたまたま見つけた。それがかの有名なデザインの中核をなすことになった。
ビートルズのルーフ・トップ・コンサートはグリンジョンズのアイデアだった
1968年12月、ポールマッカートニーから電話でビートルズのアルバム制作を頼まれた。エンジニアで参加したつもりだったが、ポールからはイントロのアレンジで意見を求められた。ジョージ・マーティンは参加してなかった。・・・・
全員で3階に集まり昼食をとっていたとき、リンゴから不意に屋上に行ったことはあるかと聞かれた。ロンドンが見渡せて、良い眺めなのだという。リンゴは広々とした平らな屋上と、南西に延びる街の壮観な景色を見せてくれた。私はそこで思いついたことを口にした。
「大人数を相手にやりたいと思ってるなら、この屋上でウェストエンド全域に向けてやったらどうだろう」下に降りてその案を皆に伝えたところ、短い話し合いの末、それでいくことに決まった。
パティ・ボイドのことを思って書かれた2つの曲
クラプトンはそれから毎日のように顔を出してくれて、最終日に私に言った。「次のアルバム、よかったらプロデュースしてもらえないかな?」「喜んで」とわたしは即答した。クラプトンの名盤「スロー・ハンド」の初セッションは5月2日、開始時刻は午後2時30分。午後5時には最初のトラックを取り終えていた。
ワンダフル・トゥナイトは、美しきパティ・ボイドを思って書かれた、私が録った2つ目の曲だ。1曲目はジョージ・ハリスンのサムシング。
君は服を選び 髪をとかす♪
わたし大丈夫かな・・♪
今夜の君は 素敵だよ♪
パーティに行くと みんなが君を振り返る♪
ぼくがどれだけ君を愛してるか 君は知らない♪
君はほんとうに素敵だよ♪
ジョージ・ハリスンが19歳のパティに会ったとき、「僕と結婚してほしい」と初めに言ったそうです。「結婚が無理なら、こんど夕食でもどう?」遊び人のミックも何度か誘ったみたいです。まぁ天使ですよね。
イーグルスについてもう少し補足。3枚目「オン・ザ・ボーダー」から、体制が変わります。
プロデュースは、グリン・ジョンズからビル・シムジクへ。マネジメントは、デビッド・ゲフィンからアーヴィン・エイゾフへ。グリン・ジョンズは、イーグルスの判断は正解だったと本書で認めています。
ビルボードが発表した「2016年音楽業界パワー100」。音楽業界に最も影響を与える100人。ベスト10を以下に。アーヴィン・エイゾフは2016年の6位。今だに大御所みたいです。
①ルシアン・グレンジ:
ユニバーサル・ミュージック・グループ会長兼CEO
②マイケル・ラピーノ:
ライブ・ネイション・エンターテイメント最高経営責任者(世界最大のイベント・プロモーション会社、マドンナ、U2、ジャスティンビーバ、ワンダイレクション、ビヨンセ、アリアナ・グランデ他、2015年度の売上は約1兆円弱)
③エディ・キュー、ロバート・コンドリック、ジミー・アイオヴィン、トレント・レズナー:
アップルの音楽ストリーミング関係者
④ダグ・モリス:
ソニーミュージック会長兼CEO
⑤マーティン・バンディア:
Sony/ATV Music Publishing最高経営責任者
⑥アーヴィン・エイゾフ:
ダン・フォーゲルバーグと一緒にイリノイ州から出てきた。イーグルスのマネージャーをゲフィンから引き継ぐ。後にアメリカ最大のマネジメント会社を設立。
今年グレン・フライ逝去後のコメントは以下。「私が知っていることのほとんどは、グレン・フライに教えてもらったんだ。グレン・フライとドン・ヘンリー、ダン・フォーゲルバーグと私で、すべてをスタートしたんだよ。グレンは並外れたミュージシャンであるだけでなく、ビジネスにも素晴らしいセンスを持っていて、私は多くの影響を受けたんだ。イーグルスの成功を超えるアメリカのバンドは、もう出てこないと思う」
エイゾフはドン・ヘンリーと同じ年で、一緒に遊びまくりました。マーク・シャピロによるエイゾフの若いころのコメントです。「ツアーの最初の3日間はまるで天国にいるとおもった。
3日間でおれたちは400人の女を相手にしたんだ。信じられるか?」
⑦コラン・キャプショー:
Red Light Management, Starr Hill Presents創業者兼運営者、ATO Records, TBD Recordsパートナー
⑧レン・ブラバトニック:
資産2兆3500億円、ロシアの大富豪でワーナー・ミュージック買収者
⑨ロブ・ライト:
大手タレント事務所エージェンシーCreative Artists Agency パートナー兼音楽部門代表
⑩ダニエル・エク:
スポティファイCEO