恥の多い人生を送ってきました。。これ読むと暗くなります。ダンサーインザダークよりはマシかなあ。
内田樹の「最終講義」に、村上春樹は太宰の直系とか書いてありました。「あ~それわかるわ」っていう読者へ共感させるものが、二人の作品には多いと。
で、村上春樹の直近作品の「村上ラヂオ2」には、太宰治は好きですか?という 項があり、その中で彼は以下のように述べています。
・太宰作品は苦手
・文体やものの見方が肌に馴染まない
・最後まで読み通せない
・テイストが合わない
・むかしは受けつけなかったけど、今はIPODで朗読を聞いてる。 活字を読まなくていいので、鷹揚に受け入れられる。
たしかに村上氏の言うとおりで、古典名作は漱石でさえも 文体が古すぎて読むのが苦痛になりますよね。源氏物語まで行っちゃうと 瀬戸内寂聴あたりの美文で読めますが、だれか古典名作を読みやすい 文章(現代の口語体)にしてくれないかなあ。
内田氏は、読者へ共感させる力というくくりで、二人を同列に扱ってますが、村上氏の言うテイストが合わないというのは、こういうことではないかと。
村上氏は彼の作品に共通してるのですが、すごい下から目線でぼくはモテナイ君です、ということをさらっと嫌みなしで伝えてきます。だけど太宰ハンの作品はモテモテ主人公で上から目線を感じる。
凝縮すると、
・村上氏は「モテナイ君だけど、強く生きる」(モテないといいながらモテてるけど)
・太宰ハンは「モテモテだけど、人間が弱い」
どちらも劣位表現で読者の共感を得るのだけど、立ち居地が違うのではないかと。
もひとつ、二人はフォーカスしてる部分が違うのでしょう。太宰ハンは、意識や五感の部分をフォーカスし剥き出しにしてます。村上氏は、無意識や集合的無意識をフォーカスし探り続けます。
蛇足ですが、心理学の無意識は仏教では末那識。心理学の集合的無意識は仏教では阿頼耶識。
日本文学を代表する二大メジャーを、お前が語るな!とお叱りをうけそうですが、そんなふうに感じています。
最後に村上春樹のエッセイを書くときの極意と言うか、原則&方針は以下の3つだそうです。
・人の悪口は書かない
・言い訳や自慢をなるべく書かない
・時事的な話題は避ける
太宰ハンの入水で未完に終わったグッド・バイの、続きが読みたい今日この頃。
リンダロンシュタット&ネルソンリドルでグッドバイ♪